妄想放浪記

三十代男の日々の徒然。音楽、映画、ゲーム、妄想世界の放浪日記。

映画レビュー 『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』

三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』を観た。


正直に言えば、 この貴重な記録をできればノーカットで観てみたかった気持ちはある。


しかしながら、全体の記録の一部とは言え、現代社会において『不適切』とされる内容が多分に詰まったこの映像を公開に踏み切った製作関係者の心意気は、高く評価したいと思う。


また、
しばしば挟まれる各関係者への現在のインタビュー映像も中々効果的に配されているように思う。


特に、学生運動時の若く血気盛んな青年達と、その当人達が齢70を越えた姿を、 共に一つの映画の流れの中で見る事ができるのが面白い。


そして、

現代と過去の映像を織り交ぜながら観せる事で、この映画は、 現代(あるいは過去) を視聴者に批評的に捉える事を可能にさせる。


つまり、
この映画の構造自体が、視聴者に批評を「促す」、ともすれば「 強いる」、ものになっているのではないだろうか。


本作のメインキャストは、三島由紀夫全共闘の学生達であるが、 一番の見所と言えば、 この極右と極左のあり得ない接触により東大駒場キャンパス900番教室に一時出現した異様な祝祭空間それ自体かもしれない


映画の内でも、瀬戸内寂聴によって述べられているが、三島の、 そのギラギラとした眼力には圧倒されるものがあり、 そのたぐい稀なる知性は、 一挙一動から滲み出でているように思う。


そして、この稀代スターである三島との議論を通じ、 全共闘の学生達もまた次第に熱を帯びていく。


ここで交わされる言葉は、時に過度に抽象的な領域にまで発展し、 それは外野から見れば、最早、現実離れした言説のための言説、 ともすれば狂人の戯言、の様にすら感じる。


言葉が疾走するほどに場と人々は熱を帯び、 熱くなるほどに言葉はますます疾っていく。
このフィードバック関係により、 東大駒場キャンパス900番教室は現世を遊離したかの様な異様な祝祭空間へと変貌を遂げる。


映画の終盤、討論会の結びとして、三島は以下の様に述べている。


「言葉は言葉を呼んで、 翼をもってこの部屋の中を飛び廻ったんです。 この言霊がどっかにどんなふうに残るか知りませんが、 私がその言葉を、 言霊をとにかくここに残して私は去っていきます。」


この言葉が示すように、
羽化した言霊が人々に憑依し、 憑依された人々は熱に浮かされた狂人の如く早口にまた言霊を羽化させていく、その一部始終、 言霊が生成増殖されていく熱狂的な祝祭空間が、 本作には記録されているのだ。


この熱狂的な空間を当時の記録映像を通じて追体験している視聴者に対し、一方で冷や水を浴びせるのが、 しばしば挿入される現在の映像である


公開討論会の内容を捕捉説明する形で差し挟まれる現在の評論家、 学者などの映像は、正直、 蛇足でしかない箇所も複数あると思うのだが、全共闘、 また楯の会の関係者の現在の映像は、字義通り、 冷や水として効果的に機能している。


というのは、
現在の彼らの映像、どこにでもいる様な、 そこそこに裕福で平凡な老人に成り果てた彼らの姿を目のあたりにする事で、一層、過去の熱狂の異様さが際立ち、 あの熱に浮かされた時間、空間は一体なんだったのかと、 視聴者は立ち返って考えさせられざるを得ないのである。


また一方で、
過去を鑑みる事で、相対的に現代の異様さもまた際立ってくる。


老人になった楯の会面々の和やかな様相の集合写真に、あるいは、 かつての全共闘のメンバーの小綺麗な服装やその穏やかな物腰に、 どこか居心地の悪さ、 言ってしまえば薄気味の悪さを感じてしまうのだ。


それは、
人の『様変わり』を目の当たりにする事の居心地の悪さ、 無自覚に嘘を連発する虚言癖を持つサイコパス気質の人物を目前にする時の薄気味の悪さに近い。

 

五十年の時間の隔たりを、二時間弱という映画的な尺に凝縮するという制作面でのトリックが、視聴者により一層、登場人物が『様変わり』する薄気味の悪さを感じさせているのである。

 

確かに、

五十年という歳月、は人を変えるのには十分過ぎる長さかもしれない。


が、
公開討論会で毒々しい存在感を示した芥正彦に関して言えば、 これに当てはまらないだろう。
芥は、劇中の現在の映像で唯一、過去との一貫性を感じさせる人物、現在においても過去の面影を引きずって生きている人物の様に見える。


しかし、
芥の場合、 その一貫性故に時代とズレてしまったからなのだろうか、 現在の映像からは、その受け皿を失くした虚勢が虚勢のまま、 ただただ虚ろに空回りしている様に、私には見えてしまう。 その言葉はますます空転し、 言霊として誰かに憑依する事は最早ない。


現在の芥の映像には、 その他全学連の面々を見る事とは別の居心地の悪さ、 時代に取り残された者を見る痛々しさがある。

 


映画の終盤、
かつては時にバリケードとして、 その本来の機能から解き放たれていたであろう900番教室の机や椅子などが、今は本来の使用用途に忠実に、 整然と講堂に並んでいる様が映像に写し出される。


かつてあった混沌と熱狂が、半世紀の時を経て、 秩序と平静へと置き換わった事を象徴的に示しているようである。

 

 


このような世界の『様変わり』 を劇中の凝縮された時間内に目の当たりにさせるという点において 、 本作は視聴者に三島由紀夫追体験させるという構造になっていると言える。


世界の『様変わり』を、リアルタイムに経験したのが、 劇中にも述べられている様に、戦中に多感な青年期を過ごし、 二十歳で終戦を迎えた三島由紀夫その人なのだから。


そして、
三島に関して言えば、
『様変わり』していく自身を取り巻く世界の中で、葛藤し、 抗った果てに、 最後には古の軍人の様に腹を切って逝ってしまう訳だ。


三島の自刃に関して「大願成就」だったと述べるのは、 現在の老いた芥正彦である。


逝ってしまう事で、『様変わり』していく世界や、自分自身が『 様変わる』事、変化というものの残酷さ、等々から解放された、 という意味合いではないだろうか。

 

それは、
祝祭空間での熱狂を引きずった挙げ句、 時代に取り残されてしまった芥正彦ならではの、 実感のこもった言葉のように思える。


戦中を引きずって戦後を生きた三島由紀夫と、 全共闘の時代を引きずって現代を生きる芥正彦は、 本作においては合わせ鏡になっているのだ。


本作を視聴して、
言葉が「言葉を呼んで、翼をもってこの部屋の中を飛び廻った」祝祭空間について、祝祭的と呼んですら良い一つの時代について、 そして、 それに関わった人間のその後の人生を決定づけるそのトマウマ的な影響力について、様々な想いを巡らせざるを得ない。

 

そして、
諸行無常を、
変化する事と変化に抗うという事、それぞれの残酷さを、
まざまざと見せつけられる思いである。

カルトについて考えた

カルトとは何か

 

カルトは怖い、と我々は漠然と刷り込まれている。

 

怪しい集まりに誘われて変な石を売りつけられた、とかそういった具体的な被害にあった人間ならいざ知らず、カルトとは何の関わりもない日常を送ってきた人間がカルトに対して感じる違和感、漠然とした恐怖は一体どこから来るのか。

 

怖いカルトとしてすぐ思い浮かべるのは、かつてサリン事件などを起こしたオウム真理教などが典型である。

 

一家惨殺したり、サリン撒いたり、まあ、むちゃくちゃなのだが、サリン事件当時は連日オウム関連の報道で持ちっきりだった。

 

そういった報道で強調される「ポア」や「シャクティパッド」など、意味のわからない表現や信者の佇まいの不気味さは、その信仰がもたらす暴力的帰結も相まって、よりいっそうその不気味さを増していたように記憶している。対象が不気味さを増すほどに報道は加熱し、視聴者は心密かに熱狂し、熱狂は新たに犠牲者を生んだのだった。

 

カルトの本質はその理解不能さにある

 

対象を理解できないという事は、恐ろしい事であると同時にワクワクできる事である。恐ろしいほどにワクワクも高まり、ワクワクが高まるとともに恐ろしさは増す。

 

話は脱線するが、

それが古今、男女が惹かれあう理由であり、東西を人が旅する理由かもしれない。

 

何故、

理解不能な対象があるのか。

性、民族、文化、地理的等々、様々の隔たりが、それぞれの独自性を育み、やがて理解不能の対象となるまで至るのだろう。

 

つまりカルトとは、

現代社会の内で、人為的に隔たりを作る集団である。故に、しばしばカルトの根城は人里離れた山奥にあったりするのだが、現代のカルトは必ずしも山奥ではなく日常のちょっとした延長に巣くっていてもおかしくない。というのも、人と人との隔たりなんて、どこにでもざらにあるのだから。

 

実際、大学のサークルや、地域の習い事の集まりなんかも、ものによっては、ちょっとしたカルトだと言える。

 

例えば、

どの漫画が面白いとかの価値観のみならず、サークル内でのみ通用する独自語などを共有しているならば、それは小さなカルトだろう。

 

こういった集団はざらにあり、多かれ少なかれ皆経験してきたものかもしれないが、この小さなカルトと本式のカルトを隔てる境界線はなんだろうか。

 

本式のカルトとは、カルトコミュニティ内の価値観が大幅に逸脱したものである事。その逸脱の具合が尋常の範囲を超えると、それをコミュニティの本格的なカルト化と言うのかもしれない。

 

カルト内では白とされるものが、カルト外では黒になる。カルト内のすべてが輝いて見えるならば、カルト外は淀みきった暗闇に映るだろう。そうしてカルト外を正そうという思考になり、そのための暴力も辞さなくなる。オウム真理教のように。

 

暴力=悪であるするのも「世間」という名の巨大なカルト集団による洗脳ではないのか、との意見もあるかも知れないが、「世間」はやはりカルト集団ではない。カルト集団と異なり「世間」で通用するのは「常識」と呼ばれる、緩やかなルールである。

 

「常識」とは、歴史的な洗練を受けて、古今東西、人の大多数に支持されてきた考え方である。「常識」はしばしば思想の停滞を招く。それは常に素晴らしいわけではないが、人類の多くが納得する思考ではある。一方、カルトとは、「常識」から如何にずらしていくのかという事が思考の始点になる。そもそも退屈な「常識」で事足りるならば、カルトはその存在意義を失ってしまうだろう。

 

逆に言うと、

カルトとはスリリングであるほどに、その力を増すのである。その価値観が常識外れであるほどに、カルトは存在意義を増し、コミュニティの結束は強まるのだ。カルトは常に反体制、反社会、非社会であり、「常識」的なカルトはカルトではない。

 

そう考えると、

カルト集団と犯罪行為は切っても切れない関係にある事がわかる。コミュニティが強く育つためには、「常識」から外れる事、スリルという餌が必要だが、餌でコミュニティが強く育ち過ぎてしまうと、カルト外への暴力に歯止めがきかなくなる。ブレーキのない自動車をぶっ飛ばしているようなもので、最早だれも止め方がわからないのだ。

 

その様が外部の人間には、ひょっとすると内部の人間にとってすら、「怖い」のである。

 

 

自分はだからと言って

カルト的なものを根絶すべきだとは思わない。それが救いとなる人々もいれば、大局的には「常識」に噛みつく事で人類の文明を拡張してきた力ではあるからだ。

 

ただ、カルトはそれに関わる人間、周囲も内部も徹底的に破壊する、許しがたい暴力機械である。

 

せめて暴走車にブレーキを付けられれば良いのだが、ブレーキ付きのカルトに最早その前進力はないだろう。

 

答えは未だない。

飛び魚礼賛

自然界は残虐で過酷

 

この映像、良く撮ったなと思う。

撮影も編集も素晴らしい。

 


https://youtu.be/bk7McNUjWgw

 

大型の肉食魚から逃れるために飛び魚は飛ぶ術を発達させたというのに、飛んだら飛んだで空には別の捕食者、海鳥達が待ち受けている。

 

みも蓋もない残酷。

飛び魚の獲得した飛ぶ能力が逆に仇となるわけだ。

 

未だ種の絶滅には至っていないわけで、生存戦略として大局的には、飛び魚という種は正しい方向に舵を切ったのかもしれないが、この映像に登場する「前門の虎、後門の狼」状態の飛び魚達からすると、神を呪わずにはいられないだろう(知能があったなら)。

 

一体何のために飛ぶ力を授かったのか、と。

 

このように

個別の事柄に注目するなら、自然界は悪意ともとれる不条理に満ちているように思える。

 

おそらく測る尺度によってその見え方は異なるのだろう。種としての善、あるいは、生態系としての善は、個体レベルではしばしば真逆に働く事があるように思う。種のレベルでは条理にかなっている事柄だとしても、個体レベルでは不条理としかとらえられない、こういった飛ぶ力を発達させた事で海鳥の餌になってしまった飛び魚の悲哀は、知能を発達させた霊長類ヒト科の世界では、自殺という形でよく観察される。

 

話を映像に戻そう。

 

「後門の狼」から逃れたため「前門の虎」である海鳥に直面した飛び魚は、飛び過ぎたものはそのまま捕食されてしまうが、飛んだ勢いを殺し垂直落下する事でさらに海鳥から逃れるものもいる。

 

海には大型魚、空には海鳥という、まさに四面楚歌、絶対絶命の状況のなか、飛び魚達は海と空を縫う様に飛び回り懸命に生き延びようとするのである。往生際のスレスレを飛び、跳ね、踊る。

与えられた能力を最大限に使って、押し付けられた不条理に懸命に抗うその様子は、奇妙に楽しく、美しく、感動的ですらある。

 

飛び魚の今際の際の迫力に、畏れ入った次第である。

生きながら死ぬこと

因果応報とは良く言ったものだ

 

何かを為せば、それは相応の報いの原因となる。

簡潔に世界の原理をあらわしているように思う。

 

高くのぼればのぼるほど落下した時のダメージが大きくなるように、人生においても幸福が大きければ大きいほどそれを失ったときの衝撃は計り知れない。

 

「我々は幸福になるために生まれきた」というような、ハッピーエンドを推奨するハリウッド映画的プロパガンダには、実は大きな罠が仕込まれている。

 

こういった幸福の捉え方に潜む罠を看破したのが、かつての仏教者ではなかったか。良い暮らしがしたい、もっと欲しい、という人の上昇欲求を「煩悩」として、それを切り捨てる事こそが、真の幸福、心の平安、悟りにいたる道である事を説いたのではないか。

 

最後は最愛の人とのキスでハッピーエンドを締めくくるハリウッド映画風の幸福論が、人の欲の肯定する云わば「生の讃歌」であるなら、欲を煩悩として否定する仏教的幸福論は「死の讃歌」のように捉え得る。

 

金や愛を獲得し、如何に生を謳歌したところで、人は必ず死ぬ。そして生の愉悦が極まれば極まるほどに、その執着が強まり、死がいっそう悲惨なものになる。であるならば、最初から何も持たぬほうが良い。生きながら死ぬ準備を整えていたならば、死の悲惨さはまだまし、場合によっては、死は歓迎すべきものになるかもしれない。

 

まあ、完全に素人解釈なので、これを仏教的と言うと仏教者に怒られるかもだが、とりあえず自分としては納得できる一つの幸福論ではある。

 

何かを獲得する事、成長する事、登り詰める事は本当に幸福への道だろうか。答えは、上方ではなく、足元のさらに下、下に下に掘り進んだ先に在る、かもしれない。

 

底の底は、解脱と言うのか何なのか、想像及ばぬ胡散臭い領域。

死に近い黒光りした塊でも待っていたら面白い。

 

 

すかんぴんのススメ

僕らは日々何らかのゴールを定めて生きている

 

預金を幾らまで貯めようだとか、結婚し幸福な家庭を築こうだとか、もっと小さい話で言えば、仕事の後美味しい夕飯を食べにいく事だったり、夏休みの旅行の予定だったり。

 

そして、それら大小それぞれのゴールまでの道のりはあくまで過程であり、多くの場合、耐えるべき退屈な時間、あるいは、人によっては苦痛の伴う時間ですらある。ゴールが蠱惑的であればあるほど、それまでの時間は相対的にはつまらなく感じる事だろう。とはいえ、この耐えるべき時間は半面夢の膨らむワクワクできる時間であるとも言える。例えば、旅行を計画している段階は、あれこれ想像を膨らませて楽しいものである。

 

この旅行を例に考えてみるならば、

計画段階は楽しかったものの、当の旅行が始まってみるとやたらと疲れるだけだったりするように、ゴール自体が思ったほど良いものではないケースもままある。

 

年齢を重ねるほど、大小様々なゴールの経験も積み重ねていく事になり、今後新たに定めたゴールにたどり着いた後本当に達成感や喜びや楽しみを得られるのかどうか、ある程度想像がつくようになる。

 

そして、経験を積んできた多く大人の場合、

先に述べた旅行の話のように、ゴールした所で実際たいして面白くないだろう、たかが知れてるだろう、という目測がたってしまい、ゴールを目指そうという気力自体が萎えてくる。

 

そうなってくると灰色の日常は、さらに色褪せていき、何のために生きるのかという動機、平坦な毎日の存在理由そのものが希薄になる。

 

それが老いるという事ではないだろうか。

 

そうしてほとんどの人間は

老いさらばえた果てに真っ白のボロのようになってくたばるのだ。

 

人は年をとるほどに経験を重ね、経験を重ねるほどに人生を見限っていく

 

この視座に立って考えてみるならば、持てる者ほどつまらない人生に飽きているケースは多いかもしれない。何故ならば、持てる者ほど多くを経験している人間であり、知っているが故に最早ゴールに夢を見れなくなった人間であるからだ。

 

持てる者とはRPGでいうところの、ゲーム終盤あるいは、レベル99近く、そんな感じではないか。

 

多くのRPGでも楽しい時はやはり、まだ見ぬ未知のマップが待っている、ゲーム序盤や中盤、あるいは、これからキャラクターが様々な技を覚えていく余地ある低~中レベル帯の時なのである。

 

リアルはRPGとは異なり、何処までも無限でありレベルキャップなどないと言う意見はあるだろう。

確かにその通りではある。

世界は未だに未知で得体のしれないものであり、宇宙というマップは拡張を続けている。

 

ただ、

人生の時間は有限である。

そして、

無限の世界に足を踏み入れる事は実に難しい。

 

科学的探求や宇宙探索などは、極一握りの選ばれた人間の特権であり、彼等にとっての世界は無限であるかもしれないが、我々多くにとってはそうではないだろう。ちょっとやそっとの大金を持っている者、持てる者達さえ含んだ我々にとっては。

 

残念ながら、多くの者にとって人生で経験値を積むことを回避する事は難しく、知らず知らずレベルが上がってしまう。他方、レベルキャップのない無限の世界に足を踏み入れる事も叶わない。

 

生きることとは

未知を失い続けていく

その残虐な老化のプロセスなのだ。

 

老いを遅らせることはできるのか

 

無限を感じて生きることが出来れば、老いを遅らせ得るが、先に述べたように、世界の無限性に触れられる人間は一握りである。人生に未知という余白を維持する事ができる環境、好奇心や探求心を尽きさせない才能、それらに恵まれた人間は一握りであり、それ以外の大多数の大人は、有限に見える世界に飽き疲れている。そして、みるみる老いていく。

 

もし老いを遅らせる事を望むのであれば、有限に見える世界を何とか拡張しなくてはならない。しかし、拡張を許されているのが、一握りの特権を得た人間だけであるならば、そこに入れなかった大多数の我々はどうすれば良いのか。

 

自らを縮める事ができれば、世界は相対的に拡がる

 

自らを縮める、つまり、自身が今まで獲得してきた何もかもを放棄すれば良いのではないか。捨てたくとも捨てられないのが経験値であるが、フィジカルなモノは捨てる事ができる。モノとは云わば世界を渡り歩くための武具であり、武具がなければ、自身は徒手空拳で世界と向き合わねばならなくなる。自身のレベルは下げる事はできないが、武具が無ければ相対的に世界の難易度は上がる。人生に飽き疲れた大人にとっての未知の世界が待ち受ける事になる。

 

火をつけるといった文明人には簡単な作業でも、ライターやマッチが無ければ、途方にくれるほど大変な作業になる事だろう。しかし、それは多くの人にとって未知であり、まだ見ぬゴールである。

 

放棄するのに、金や学歴はいらない。ラッキーな事に誰だってできる。野山に出掛けてテント暮らししようてすれば、またそれにも金がかかるが、いまこの場で自身の暮らしを放棄するだけならば無料である。必要なのは崖から飛び降りる勇気だけだ。

 

裸一貫、すかんぴん。

 

いきなりその状態に飛び降りるのは恐ろしすぎるとしても、まず目の前のモノ、いらないモノではなく、あなたにとって必要なモノを捨ててみるのはどうだろう?例えば、あなたを加速度的に老化させている、その大切なスマホなんか、最初に捨ててみては如何か?

 

モノを捨てれば捨てるほどに世界は拡がり、灰色の世界は少しずつかつての彩りを取り戻す。

 

全く馬鹿げた考えのようだが、馬鹿げてるが故の意味がある。ただし、捨てた先、どうなるかは保証できない。保証できない事にこそ、未来という未知があるのだから。

ヤケクソに考えた

先日とても辛い事があった。

 

しかし、心に穴の空いたような痛みの半面で、音楽活動へのモチベーションが、なぜだろう、沸々と高まっているのを感じる。

 

父親と育ての親である祖父母が立て続けに他界した時もそうだった。

 

悲しくてやりきれない気持ちから逃れるための逃避先として何かに没頭しようとするのは、ある種の生存本能のようなものだろうか。

 

生存本能と言える半面で、何だろうか、このヤケクソ感。このヤケクソ感は、死へ欲動に近いものとも言えるかもしれない。

 

人間は辛さが限度を超えてしまうと、精神がぶっ壊れたり、果ては自殺に至る。

そういった病や自死に至る、何歩か手前にヤケクソ状態があって、そういう時、人は倒れるほど酒を呑んだり、自らで自らを窮地に追い込んだりする事で、肉体と精神を苛めぬこうとするのだ。言い換えるなら、死に近づこうとする。

 

死に近づくのは、単純に死に惹かれているからとも言えるし、死に近い状態、つまり酩酊や忙殺のヤケクソ状態ほど我を忘れる事ができるから、とも言える。我を忘れるのは、生き延びるためである。そう考えるならば、死に近い場所とは、「生きたい」と「死にたい」が交差する地点ではないか。

 

こういったヤケクソ状態が何らかのメディアによって表現されたものは、時にアートと呼ばれたりもする。音楽におけるブルースは、このヤケクソ表現の典型かもしれない。

 

ブルースの曲で、明るくノリの良いバッキングに合わせて「誰も俺を愛さない」とネガティブな詞を歌うのは、「生きたい」と「死にたい」が、ポジとネガがない交ぜになったヤケクソ状態をよくあらわしているように思う。喜怒哀楽、清濁入り交じる分離不能な、訳のわからぬ混沌状態、ヤケクソ感こそが、痛みが根底にある表現の特徴だろうか。

 

まさに

人生オワタ(^o^)/ 

てヤツである。

 

ただし、

人生オワタと思わせる痛みや悲しみは、それに殺されない限りにおいては、時に始まりの原動力になる。つまり人生はなかなか終わらない。容易には終わってくれない人生は、「生きたい」と「死にたい」をない交ぜにしながら、ダラダラと続いていく。

ネットに溢れる有象無象とのつきあい方

ネットにおける科学的とされる情報は井戸端会議の噂話レベルの信頼度である

 

ここ最近のコロナ禍は、ネット社会の本質を浮き彫りにしたように思う。ネットには様々なコロナに関する持論、極論、憶測溢れかえり、混迷の様相を呈している。コロナなどただの風邪だとする陰謀論系の人達から、コロナ脳と揶揄されるコロナ危険論者まで様々だ。それら多くの、それぞれの持論には、それぞれの科学的根拠、持論の依拠するエビデンスがあったりする。こうなってくると科学的根拠=客観的根拠、つまり答えは一つであるとは言えなくなってくる。なぜそう言うことが起こるのかと言えば、結局データというものはそれを計測する定規に依拠していて、定規のメモリの大きさが異なれば、同じ対象から百八十度ことなるデータを読み取る事が可能であるからだと言えるだろう。蟻の物差しで測れば人間は巨人になり、鯨の物差しで測れば人間は小人になるのだ。最も、その物差しを一定にしましょう、というのがそもそもの科学なのだろうが、ネットに溢れる科学的データは様々な利権に癒着したものも多く、素人目にはそれらの信頼度を選り分ける事は難しい。結局の所、人間は感情の生き物で、自身にとって心地よい状態、利になる状況を作り出すために、それぞれに都合の良い縮尺の定規でもって、データを殖産する。そして、その殖産されたデータを信じたい人達が集まってきて、更にそれを玉突き状に増幅させるものだから、最早手のつけようがない。つまるところ、ネットは、リアルと変わらない、井戸端会議の延長である。ただし、リアルとは異なり、多数決や暴力行使といった手段は規制されているため意見は集約されることなく無数の意見がそれぞれに乱立し、それぞれに水掛け論をやっている。まさに終わることのない井戸端会議である。

よもやま論の乱立する世界で何を信じるべきか

こういった世界の様相に気づくと、もはや何も信じられなくなり、相対主義者になり果ててしまうかもしれない。何も信じられないからといって、何も信じないという事を信じ出すと、ただただ他人の揚げ足取りを繰り返すクソ野郎に成り果ててしまう。

そうならないためにも、まずは、よもやま論の乱立する現代社会から一度距離をおき、自身の主観をキャリブレーションし直してみるのが良いのではないか。つまり、世間的に善しとされる物事は、本当に自分にとっても価値あるものだと言えるのか。ネットや俗世から一旦距離をおき、目に見える現実や、体感した経験、アナクロな生活へのリセットを試みる。「人間」の起源を生き直す事、自身にとって何が心地よく、何に不快さを感じるのかを洗練、精査しなおす事。この事を突き詰めていくのならば、自分という人間が如何に平均値からズレた存在であるかという事が、ひょっとすると明らかになる、かもしれない。

この発見を経過したうえで、今一度ネット社会に立ち返るのならば、そこには新しい原野を見出だせるかもしれない。あるいはその原野にはあなたが信じるべき何物かがすでに存在しているかもしれないし、あなた自身がその何物かを打ち立てる開拓者の一人なのかもしれない。何れにせよ、その何物かには(例の胡散臭い)科学的エビデンスは保証されていないかもしれないが、あなた自身の経験によって既に根は通っており、幾分、磐石である。あなたが信じる何物かは、皆にとっての住みやすい世界に貢献するかどうかはわからないが、世の中を少しは面白いものにしてくれるのではないだろうか。