妄想放浪記

三十代男の日々の徒然。音楽、映画、ゲーム、妄想世界の放浪日記。

映画レビュー 『小さいおうち』

今日は山田洋次監督の2014年に公開された『小さいおうち』という映画を観て考えたことを書こうと思う。

 

 

 『小さいおうち』 /監督:山田洋次/製作国:日本/製作年:2014年 

<あらすじ>健史(妻夫木聡)の親類であった、タキ(倍賞千恵子)が残した大学ノート。

それは晩年の彼女がつづっていた自叙伝であった。

昭和11年、田舎から出てきた若き日のタキ(黒木華)は、東京の外れに赤い三角屋根の小さくてモダンな屋敷を構える平井家のお手伝いさんとして働く。
そこには、主人である雅樹(片岡孝太郎)と美しい年下の妻・時子(松たか子)、二人の間に生まれた男の子が暮らしていた。

穏やかな彼らの生活を見つめていたタキだが、板倉(吉岡秀隆)という青年に時子の心が揺れていることに気付く。

シネマトゥデイより引用

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の映画では確かに戦争が人々にもたらす悲しみが描かれてはいるが、中国や南方の島々で戦う兵隊や焼夷弾で焼け落ちる街、防空壕で息を潜める市井の人々など、おおよそ太平洋戦争に纏わる映画やドラマに頻繁に出てくる悲惨さが、典型的に描写される事はない。

 

この映画が描くのは、徹頭徹尾、平井家をめぐるお話、「小さいおうち」をめぐるミニマルなお話である。この映画には、戦争映画に有りがちなこれ見よがしな残酷描写はない。代わりに、時子やタキといった個人の感情が封殺されていく過程に徹底的にフォーカスを絞りこむ。

 

この映画は太平洋戦争という途方もない出来事から、あの時代に抑圧されていった個々の人間の悲しみを、現代人にも共感可能な悲惨さとして、丁寧にそれをより分けて私達にみせてくれるのである。

 

「小さいおうち」の非常に素晴らしい点は、戦争の時代の悲しみを、天災のようなものとして描くのではなく、あくまで人が生み出した悲しみとして、描ききっている点である。

 

時子やタキの感情を封殺していくのは、世間の目であり、世間とは実際に彼女らの周りを取り囲む人間の連なり(亭主、会社の同僚、近所の酒屋etc)である事は、はっきりと描かれている。この人間達は、決して明確な悪意を持って時子やタキを抑圧しているわけではない。ただ、慣習や世の中の流れに従って、加害者意識も希薄なまま、何となく時子やタキを抑圧していくのである。

 

この映画のタイトル、『小さいおうち』とは、「壁に耳あり障子に目あり」の狭っ苦しい世間、同調圧力の強い日本という国の事を暗に示しているように思える。物語の終盤、焼け落ちていく平井家の「小さいおうち」は、戦争に負けて瓦解した大日本帝国のメタファーかもしれない。

 

老女になった現代のタキが、自身の過去の行為を悔いて号泣する場面はこの映画の中でも屈指の名シーンであろう。

 

タキは、板倉に時子の手紙を届けなかったことで、板倉と時子の関係を終わらせる。タキ自身も性的マイノリティとして抑圧される立場にありながら、自身の時子に対する愛情も相まって、世間とともに時子を抑圧する立場にまわってしまう。この映画におけるタキは、自身が他者の感情を封殺した加害者であるということを明確に自覚する、恐らくただ一人の登場人物であると言えるだろう。

 

そして、その明確な加害者意識があったが故に、戦後もずっと、時子に対する行いを悔いながら生きてきたのである。老いたタキが、後悔の涙を流す場面の痛々しさからは、タキ自身もあの戦争の時代の加害者でありながら同時に被害者なのだと感じさせられる。