妄想放浪記

三十代男の日々の徒然。音楽、映画、ゲーム、妄想世界の放浪日記。

生きながら死ぬこと

因果応報とは良く言ったものだ

 

何かを為せば、それは相応の報いの原因となる。

簡潔に世界の原理をあらわしているように思う。

 

高くのぼればのぼるほど落下した時のダメージが大きくなるように、人生においても幸福が大きければ大きいほどそれを失ったときの衝撃は計り知れない。

 

「我々は幸福になるために生まれきた」というような、ハッピーエンドを推奨するハリウッド映画的プロパガンダには、実は大きな罠が仕込まれている。

 

こういった幸福の捉え方に潜む罠を看破したのが、かつての仏教者ではなかったか。良い暮らしがしたい、もっと欲しい、という人の上昇欲求を「煩悩」として、それを切り捨てる事こそが、真の幸福、心の平安、悟りにいたる道である事を説いたのではないか。

 

最後は最愛の人とのキスでハッピーエンドを締めくくるハリウッド映画風の幸福論が、人の欲の肯定する云わば「生の讃歌」であるなら、欲を煩悩として否定する仏教的幸福論は「死の讃歌」のように捉え得る。

 

金や愛を獲得し、如何に生を謳歌したところで、人は必ず死ぬ。そして生の愉悦が極まれば極まるほどに、その執着が強まり、死がいっそう悲惨なものになる。であるならば、最初から何も持たぬほうが良い。生きながら死ぬ準備を整えていたならば、死の悲惨さはまだまし、場合によっては、死は歓迎すべきものになるかもしれない。

 

まあ、完全に素人解釈なので、これを仏教的と言うと仏教者に怒られるかもだが、とりあえず自分としては納得できる一つの幸福論ではある。

 

何かを獲得する事、成長する事、登り詰める事は本当に幸福への道だろうか。答えは、上方ではなく、足元のさらに下、下に下に掘り進んだ先に在る、かもしれない。

 

底の底は、解脱と言うのか何なのか、想像及ばぬ胡散臭い領域。

死に近い黒光りした塊でも待っていたら面白い。