妄想放浪記

三十代男の日々の徒然。音楽、映画、ゲーム、妄想世界の放浪日記。

映画レビュー 『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』

三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』を観た。


正直に言えば、 この貴重な記録をできればノーカットで観てみたかった気持ちはある。


しかしながら、全体の記録の一部とは言え、現代社会において『不適切』とされる内容が多分に詰まったこの映像を公開に踏み切った製作関係者の心意気は、高く評価したいと思う。


また、
しばしば挟まれる各関係者への現在のインタビュー映像も中々効果的に配されているように思う。


特に、学生運動時の若く血気盛んな青年達と、その当人達が齢70を越えた姿を、 共に一つの映画の流れの中で見る事ができるのが面白い。


そして、

現代と過去の映像を織り交ぜながら観せる事で、この映画は、 現代(あるいは過去) を視聴者に批評的に捉える事を可能にさせる。


つまり、
この映画の構造自体が、視聴者に批評を「促す」、ともすれば「 強いる」、ものになっているのではないだろうか。


本作のメインキャストは、三島由紀夫全共闘の学生達であるが、 一番の見所と言えば、 この極右と極左のあり得ない接触により東大駒場キャンパス900番教室に一時出現した異様な祝祭空間それ自体かもしれない


映画の内でも、瀬戸内寂聴によって述べられているが、三島の、 そのギラギラとした眼力には圧倒されるものがあり、 そのたぐい稀なる知性は、 一挙一動から滲み出でているように思う。


そして、この稀代スターである三島との議論を通じ、 全共闘の学生達もまた次第に熱を帯びていく。


ここで交わされる言葉は、時に過度に抽象的な領域にまで発展し、 それは外野から見れば、最早、現実離れした言説のための言説、 ともすれば狂人の戯言、の様にすら感じる。


言葉が疾走するほどに場と人々は熱を帯び、 熱くなるほどに言葉はますます疾っていく。
このフィードバック関係により、 東大駒場キャンパス900番教室は現世を遊離したかの様な異様な祝祭空間へと変貌を遂げる。


映画の終盤、討論会の結びとして、三島は以下の様に述べている。


「言葉は言葉を呼んで、 翼をもってこの部屋の中を飛び廻ったんです。 この言霊がどっかにどんなふうに残るか知りませんが、 私がその言葉を、 言霊をとにかくここに残して私は去っていきます。」


この言葉が示すように、
羽化した言霊が人々に憑依し、 憑依された人々は熱に浮かされた狂人の如く早口にまた言霊を羽化させていく、その一部始終、 言霊が生成増殖されていく熱狂的な祝祭空間が、 本作には記録されているのだ。


この熱狂的な空間を当時の記録映像を通じて追体験している視聴者に対し、一方で冷や水を浴びせるのが、 しばしば挿入される現在の映像である


公開討論会の内容を捕捉説明する形で差し挟まれる現在の評論家、 学者などの映像は、正直、 蛇足でしかない箇所も複数あると思うのだが、全共闘、 また楯の会の関係者の現在の映像は、字義通り、 冷や水として効果的に機能している。


というのは、
現在の彼らの映像、どこにでもいる様な、 そこそこに裕福で平凡な老人に成り果てた彼らの姿を目のあたりにする事で、一層、過去の熱狂の異様さが際立ち、 あの熱に浮かされた時間、空間は一体なんだったのかと、 視聴者は立ち返って考えさせられざるを得ないのである。


また一方で、
過去を鑑みる事で、相対的に現代の異様さもまた際立ってくる。


老人になった楯の会面々の和やかな様相の集合写真に、あるいは、 かつての全共闘のメンバーの小綺麗な服装やその穏やかな物腰に、 どこか居心地の悪さ、 言ってしまえば薄気味の悪さを感じてしまうのだ。


それは、
人の『様変わり』を目の当たりにする事の居心地の悪さ、 無自覚に嘘を連発する虚言癖を持つサイコパス気質の人物を目前にする時の薄気味の悪さに近い。

 

五十年の時間の隔たりを、二時間弱という映画的な尺に凝縮するという制作面でのトリックが、視聴者により一層、登場人物が『様変わり』する薄気味の悪さを感じさせているのである。

 

確かに、

五十年という歳月、は人を変えるのには十分過ぎる長さかもしれない。


が、
公開討論会で毒々しい存在感を示した芥正彦に関して言えば、 これに当てはまらないだろう。
芥は、劇中の現在の映像で唯一、過去との一貫性を感じさせる人物、現在においても過去の面影を引きずって生きている人物の様に見える。


しかし、
芥の場合、 その一貫性故に時代とズレてしまったからなのだろうか、 現在の映像からは、その受け皿を失くした虚勢が虚勢のまま、 ただただ虚ろに空回りしている様に、私には見えてしまう。 その言葉はますます空転し、 言霊として誰かに憑依する事は最早ない。


現在の芥の映像には、 その他全学連の面々を見る事とは別の居心地の悪さ、 時代に取り残された者を見る痛々しさがある。

 


映画の終盤、
かつては時にバリケードとして、 その本来の機能から解き放たれていたであろう900番教室の机や椅子などが、今は本来の使用用途に忠実に、 整然と講堂に並んでいる様が映像に写し出される。


かつてあった混沌と熱狂が、半世紀の時を経て、 秩序と平静へと置き換わった事を象徴的に示しているようである。

 

 


このような世界の『様変わり』 を劇中の凝縮された時間内に目の当たりにさせるという点において 、 本作は視聴者に三島由紀夫追体験させるという構造になっていると言える。


世界の『様変わり』を、リアルタイムに経験したのが、 劇中にも述べられている様に、戦中に多感な青年期を過ごし、 二十歳で終戦を迎えた三島由紀夫その人なのだから。


そして、
三島に関して言えば、
『様変わり』していく自身を取り巻く世界の中で、葛藤し、 抗った果てに、 最後には古の軍人の様に腹を切って逝ってしまう訳だ。


三島の自刃に関して「大願成就」だったと述べるのは、 現在の老いた芥正彦である。


逝ってしまう事で、『様変わり』していく世界や、自分自身が『 様変わる』事、変化というものの残酷さ、等々から解放された、 という意味合いではないだろうか。

 

それは、
祝祭空間での熱狂を引きずった挙げ句、 時代に取り残されてしまった芥正彦ならではの、 実感のこもった言葉のように思える。


戦中を引きずって戦後を生きた三島由紀夫と、 全共闘の時代を引きずって現代を生きる芥正彦は、 本作においては合わせ鏡になっているのだ。


本作を視聴して、
言葉が「言葉を呼んで、翼をもってこの部屋の中を飛び廻った」祝祭空間について、祝祭的と呼んですら良い一つの時代について、 そして、 それに関わった人間のその後の人生を決定づけるそのトマウマ的な影響力について、様々な想いを巡らせざるを得ない。

 

そして、
諸行無常を、
変化する事と変化に抗うという事、それぞれの残酷さを、
まざまざと見せつけられる思いである。