妄想放浪記

三十代男の日々の徒然。音楽、映画、ゲーム、妄想世界の放浪日記。

カルトについて考えた

カルトとは何か

 

カルトは怖い、と我々は漠然と刷り込まれている。

 

怪しい集まりに誘われて変な石を売りつけられた、とかそういった具体的な被害にあった人間ならいざ知らず、カルトとは何の関わりもない日常を送ってきた人間がカルトに対して感じる違和感、漠然とした恐怖は一体どこから来るのか。

 

怖いカルトとしてすぐ思い浮かべるのは、かつてサリン事件などを起こしたオウム真理教などが典型である。

 

一家惨殺したり、サリン撒いたり、まあ、むちゃくちゃなのだが、サリン事件当時は連日オウム関連の報道で持ちっきりだった。

 

そういった報道で強調される「ポア」や「シャクティパッド」など、意味のわからない表現や信者の佇まいの不気味さは、その信仰がもたらす暴力的帰結も相まって、よりいっそうその不気味さを増していたように記憶している。対象が不気味さを増すほどに報道は加熱し、視聴者は心密かに熱狂し、熱狂は新たに犠牲者を生んだのだった。

 

カルトの本質はその理解不能さにある

 

対象を理解できないという事は、恐ろしい事であると同時にワクワクできる事である。恐ろしいほどにワクワクも高まり、ワクワクが高まるとともに恐ろしさは増す。

 

話は脱線するが、

それが古今、男女が惹かれあう理由であり、東西を人が旅する理由かもしれない。

 

何故、

理解不能な対象があるのか。

性、民族、文化、地理的等々、様々の隔たりが、それぞれの独自性を育み、やがて理解不能の対象となるまで至るのだろう。

 

つまりカルトとは、

現代社会の内で、人為的に隔たりを作る集団である。故に、しばしばカルトの根城は人里離れた山奥にあったりするのだが、現代のカルトは必ずしも山奥ではなく日常のちょっとした延長に巣くっていてもおかしくない。というのも、人と人との隔たりなんて、どこにでもざらにあるのだから。

 

実際、大学のサークルや、地域の習い事の集まりなんかも、ものによっては、ちょっとしたカルトだと言える。

 

例えば、

どの漫画が面白いとかの価値観のみならず、サークル内でのみ通用する独自語などを共有しているならば、それは小さなカルトだろう。

 

こういった集団はざらにあり、多かれ少なかれ皆経験してきたものかもしれないが、この小さなカルトと本式のカルトを隔てる境界線はなんだろうか。

 

本式のカルトとは、カルトコミュニティ内の価値観が大幅に逸脱したものである事。その逸脱の具合が尋常の範囲を超えると、それをコミュニティの本格的なカルト化と言うのかもしれない。

 

カルト内では白とされるものが、カルト外では黒になる。カルト内のすべてが輝いて見えるならば、カルト外は淀みきった暗闇に映るだろう。そうしてカルト外を正そうという思考になり、そのための暴力も辞さなくなる。オウム真理教のように。

 

暴力=悪であるするのも「世間」という名の巨大なカルト集団による洗脳ではないのか、との意見もあるかも知れないが、「世間」はやはりカルト集団ではない。カルト集団と異なり「世間」で通用するのは「常識」と呼ばれる、緩やかなルールである。

 

「常識」とは、歴史的な洗練を受けて、古今東西、人の大多数に支持されてきた考え方である。「常識」はしばしば思想の停滞を招く。それは常に素晴らしいわけではないが、人類の多くが納得する思考ではある。一方、カルトとは、「常識」から如何にずらしていくのかという事が思考の始点になる。そもそも退屈な「常識」で事足りるならば、カルトはその存在意義を失ってしまうだろう。

 

逆に言うと、

カルトとはスリリングであるほどに、その力を増すのである。その価値観が常識外れであるほどに、カルトは存在意義を増し、コミュニティの結束は強まるのだ。カルトは常に反体制、反社会、非社会であり、「常識」的なカルトはカルトではない。

 

そう考えると、

カルト集団と犯罪行為は切っても切れない関係にある事がわかる。コミュニティが強く育つためには、「常識」から外れる事、スリルという餌が必要だが、餌でコミュニティが強く育ち過ぎてしまうと、カルト外への暴力に歯止めがきかなくなる。ブレーキのない自動車をぶっ飛ばしているようなもので、最早だれも止め方がわからないのだ。

 

その様が外部の人間には、ひょっとすると内部の人間にとってすら、「怖い」のである。

 

 

自分はだからと言って

カルト的なものを根絶すべきだとは思わない。それが救いとなる人々もいれば、大局的には「常識」に噛みつく事で人類の文明を拡張してきた力ではあるからだ。

 

ただ、カルトはそれに関わる人間、周囲も内部も徹底的に破壊する、許しがたい暴力機械である。

 

せめて暴走車にブレーキを付けられれば良いのだが、ブレーキ付きのカルトに最早その前進力はないだろう。

 

答えは未だない。