妄想放浪記

三十代男の日々の徒然。音楽、映画、ゲーム、妄想世界の放浪日記。

小さな事からコツコツと→諦めのススメ

毎日コツコツと積み上げるのは難しい

ブログやYouTubeなど、今の時代、個人が発信する手段は無数にあるが、発信したところでそこに反響が帰ってくる事は稀だ。本ブログの如く、閑古鳥が鳴きまくって耳が痛い人は多いのではないか。

 

友人にブログに反応が帰ってくるどころか、その収益化に成功している者がいるが、彼曰く、最低百記事は必要らしい。

 

百記事…

僕のような怠け者にとっては途方もない数字である。とても到達できる気がしないはるかな高みに思える。

 

だから、ここでは

如何にして継続的にブログを積み上げて百記事に到達する事ができるのかを、考えてみよう。

 

やはり何らかの「手応え」を感じない限り、ブログを続ける事は難しい。

もし、記事を書く毎に、読者から何か反応が帰ってくるとしたならば、それはブログ継続の強いモチベーションになるはずだ。

 

例えば…

山を登るとして、歩けども歩けども風景が麓の雑木林から変化する事がなかったらどうだろうか?

最初は体力に任せて進むものの、風景の変化しないことに飽き、疲れ、歩む速度は低下。次第に、ちゃんと山頂に向かって進んでいるのかどうか、それすらも危ぶまれ、歩みは止まり、果ては引き返す道を探し始めるのではないか。

 

これをブログ執筆に当てはめるならば、一歩一歩の歩みが執筆行為、山頂に向かって変化する風景が、読者数の増加やそのフィードバックである。風景が少しずつでも変化していくならば、道程はより楽しくなり、何よりも一歩一歩が前進に繋がっていることに確信がもてるはずだ。

 

やはり、ブログ執筆の毎に何らかの読者からの反応があれば、それは次の記事へのモチベーションになるはずである。

 

しかし、某友人曰く、まず、最低、百記事はなけりゃ話にならん、百記事あたりが読者の反応が帰ってくるスタート地点だと言うのである。

 

百記事までは云わば山麓の雑木林だと言う事なので、見晴らしの良い風景は百記事到達の先に待っている。とは言っても、それは決して確約されているわけではなく、百記事積んでも閑古鳥が鳴くという結果も十分に有り得る。

 

そもそも百記事までの道ですらフィードバック無しだとキツくて折れそうだいうのに、見晴らしの良い風景に続いているかもわからない道を孤独にひた走るなんて土台無理な話だ。

 

しかしそれでも、

ブログを続けようという固い意志と怠惰の性質を併せ持つ僕のような諸君に言いたい事。

 

それは「諦めろ」である。

 

読者に何らかの反応を期待してはいけない。何も期待するな。諦めた先にこそ未来がある。

 

そもそも読者に何かを期待すると、何とか読者に分かりやすいものを作ろう、ウケるものを作ろうという意思が働く。それは執筆活動に、良くも悪くも、プレッシャーを与える。良い作用としては、客観を意識する事、独り善がりな文章にならない事であるとか、様々在る。良い面は即ち、悪い面にも繋がっており、客観を意識し丁寧になることで、執筆に時間がかかる。手間をかけるほどに反応を期待し、案の定無反応に終わると、勝手に期待したせいで、勝手に落ち込む事になる。次第に執筆作業が「重たく」なり、そのうち億劫になる。

 

このような悪循環の根元にあるのは、

読者が存在するという、また、読者が何らかの反応を寄越すという、発信者の勝手な期待である。

 

であるならば、

端から期待などしなければ良い。

 

ブログなどは、誰の目にもとまらない便所の落書きの如きものである。落書きは、そこに何かの反応を期待して描くものではないがゆえに、落とし書きなのである。

 

これはしばしば肝に銘じなければならない。

でなければ、百記事はおろか、十記事にも届かずに筆を折ってしまうかもしれない。

 

受け手に期待しない事、それはブログに限らず、動画や写真、あらゆる発信を継続していく鍵である。

 

受け手の反応が帰ってきたら御の字ぐらいに思って、自分が楽に肩の力を抜いて続けられる事、つまりは好きな事を、マイペースに発信していく。「好き」を収益にする事などは、宝くじに当たるようなものだと99,9999%諦めておく事。

 

諦める事で積む事が可能になる。とりあえずは、百記事のマイルストーンまで積む事ができれば、万に一つの宝くじは、当たらないとも限らない(当たらんw当たらんw)

 

諦めた先にこそ、未来があるのだ。