妄想放浪記

三十代男の日々の徒然。音楽、映画、ゲーム、妄想世界の放浪日記。

ネットに溢れる有象無象とのつきあい方

ネットにおける科学的とされる情報は井戸端会議の噂話レベルの信頼度である

 

ここ最近のコロナ禍は、ネット社会の本質を浮き彫りにしたように思う。ネットには様々なコロナに関する持論、極論、憶測溢れかえり、混迷の様相を呈している。コロナなどただの風邪だとする陰謀論系の人達から、コロナ脳と揶揄されるコロナ危険論者まで様々だ。それら多くの、それぞれの持論には、それぞれの科学的根拠、持論の依拠するエビデンスがあったりする。こうなってくると科学的根拠=客観的根拠、つまり答えは一つであるとは言えなくなってくる。なぜそう言うことが起こるのかと言えば、結局データというものはそれを計測する定規に依拠していて、定規のメモリの大きさが異なれば、同じ対象から百八十度ことなるデータを読み取る事が可能であるからだと言えるだろう。蟻の物差しで測れば人間は巨人になり、鯨の物差しで測れば人間は小人になるのだ。最も、その物差しを一定にしましょう、というのがそもそもの科学なのだろうが、ネットに溢れる科学的データは様々な利権に癒着したものも多く、素人目にはそれらの信頼度を選り分ける事は難しい。結局の所、人間は感情の生き物で、自身にとって心地よい状態、利になる状況を作り出すために、それぞれに都合の良い縮尺の定規でもって、データを殖産する。そして、その殖産されたデータを信じたい人達が集まってきて、更にそれを玉突き状に増幅させるものだから、最早手のつけようがない。つまるところ、ネットは、リアルと変わらない、井戸端会議の延長である。ただし、リアルとは異なり、多数決や暴力行使といった手段は規制されているため意見は集約されることなく無数の意見がそれぞれに乱立し、それぞれに水掛け論をやっている。まさに終わることのない井戸端会議である。

よもやま論の乱立する世界で何を信じるべきか

こういった世界の様相に気づくと、もはや何も信じられなくなり、相対主義者になり果ててしまうかもしれない。何も信じられないからといって、何も信じないという事を信じ出すと、ただただ他人の揚げ足取りを繰り返すクソ野郎に成り果ててしまう。

そうならないためにも、まずは、よもやま論の乱立する現代社会から一度距離をおき、自身の主観をキャリブレーションし直してみるのが良いのではないか。つまり、世間的に善しとされる物事は、本当に自分にとっても価値あるものだと言えるのか。ネットや俗世から一旦距離をおき、目に見える現実や、体感した経験、アナクロな生活へのリセットを試みる。「人間」の起源を生き直す事、自身にとって何が心地よく、何に不快さを感じるのかを洗練、精査しなおす事。この事を突き詰めていくのならば、自分という人間が如何に平均値からズレた存在であるかという事が、ひょっとすると明らかになる、かもしれない。

この発見を経過したうえで、今一度ネット社会に立ち返るのならば、そこには新しい原野を見出だせるかもしれない。あるいはその原野にはあなたが信じるべき何物かがすでに存在しているかもしれないし、あなた自身がその何物かを打ち立てる開拓者の一人なのかもしれない。何れにせよ、その何物かには(例の胡散臭い)科学的エビデンスは保証されていないかもしれないが、あなた自身の経験によって既に根は通っており、幾分、磐石である。あなたが信じる何物かは、皆にとっての住みやすい世界に貢献するかどうかはわからないが、世の中を少しは面白いものにしてくれるのではないだろうか。