妄想放浪記

三十代男の日々の徒然。音楽、映画、ゲーム、妄想世界の放浪日記。

ヤケクソに考えた

先日とても辛い事があった。

 

しかし、心に穴の空いたような痛みの半面で、音楽活動へのモチベーションが、なぜだろう、沸々と高まっているのを感じる。

 

父親と育ての親である祖父母が立て続けに他界した時もそうだった。

 

悲しくてやりきれない気持ちから逃れるための逃避先として何かに没頭しようとするのは、ある種の生存本能のようなものだろうか。

 

生存本能と言える半面で、何だろうか、このヤケクソ感。このヤケクソ感は、死へ欲動に近いものとも言えるかもしれない。

 

人間は辛さが限度を超えてしまうと、精神がぶっ壊れたり、果ては自殺に至る。

そういった病や自死に至る、何歩か手前にヤケクソ状態があって、そういう時、人は倒れるほど酒を呑んだり、自らで自らを窮地に追い込んだりする事で、肉体と精神を苛めぬこうとするのだ。言い換えるなら、死に近づこうとする。

 

死に近づくのは、単純に死に惹かれているからとも言えるし、死に近い状態、つまり酩酊や忙殺のヤケクソ状態ほど我を忘れる事ができるから、とも言える。我を忘れるのは、生き延びるためである。そう考えるならば、死に近い場所とは、「生きたい」と「死にたい」が交差する地点ではないか。

 

こういったヤケクソ状態が何らかのメディアによって表現されたものは、時にアートと呼ばれたりもする。音楽におけるブルースは、このヤケクソ表現の典型かもしれない。

 

ブルースの曲で、明るくノリの良いバッキングに合わせて「誰も俺を愛さない」とネガティブな詞を歌うのは、「生きたい」と「死にたい」が、ポジとネガがない交ぜになったヤケクソ状態をよくあらわしているように思う。喜怒哀楽、清濁入り交じる分離不能な、訳のわからぬ混沌状態、ヤケクソ感こそが、痛みが根底にある表現の特徴だろうか。

 

まさに

人生オワタ(^o^)/ 

てヤツである。

 

ただし、

人生オワタと思わせる痛みや悲しみは、それに殺されない限りにおいては、時に始まりの原動力になる。つまり人生はなかなか終わらない。容易には終わってくれない人生は、「生きたい」と「死にたい」をない交ぜにしながら、ダラダラと続いていく。