妄想放浪記

三十代男の日々の徒然。音楽、映画、ゲーム、妄想世界の放浪日記。

生きた記録を残す事

子供に向かって大人は、「自分の頭で考えなさい」
とかよく言うけれど、果たしてどれだけの大人が自分の頭でものを考えていると言えるのだろう。

世の中には様々な考えや意見が溢れている。
だが、それらの元を辿れば多くは、どこかで誰かから聞きかじった事、本やネット、テレビの情報、だったりする。
そして、人がさも自身の考えかの様に喧伝する事の多くはそれらの情報を中継しているだけだとは言えないだろうか。


思い出してもみてほしい。


あなたが昨日友人に話した事。
それはあなたが自分の手や足や耳鼻や目を使って、直接仕入れた情報だったか?
あなたが自分の頭で考えた?本当に?

通勤電車で目に入ったつり広告、昨日寝る前にスマホでみたまとめブログ、妻から聞いた新しい健康法について、エトセトラエトセトラ。

あなたが直接見たであろう電車のつり広告の中身は、そもそもがある政治家の発言の受け売りかもしれない。
妻から直接聞いたであろう新しい健康法は、妻がワイドショーで仕入れたネタ、それも元を辿れば、古くは太極拳に起因するものかもしれない。

あなたが直接仕入れたと思い込んでいる情報のほとんどがそもそもは借り物、借り物の借り物、借り物の借り物の借り物…だったりする。


そして、
そんな借り物の力を借りなければ、日常での話題作りはおろか、モノを考える事すら実は難しい。


例えば、
地図とは、社会の共有財産から借りてきた情報である。

地図は云わば、鷹の目、空からの視座を得る道具である。空からの視座を得る事で、人は自分の今いる場所や目的地についてを、彼と我との位置関係と距離を知る事ができる。

目的地まで歩くのか、バスを使うのか、湖を渡るルートか、迂回するのか、どれだけかかるのか、目的地までお金や食料は持つのか。

空からの視座を得る事で、
思考のタガが外れる。
考えられる事、考えておかなければならない事がぐんと増える。見えてくる。


地図であれ、テレビの流すニュースであれ、ネット情報であれ、それらのメディアは自身の五感で把握する周囲数十メートルの情報をはるかに越える範囲の情報得る事を可能にする。

社会とは数百万、数億の人間が寄り集まった巨大怪獣の如きものだ。地図やテレビやネット、そう言った全てのメディア、社会的所有は、そんな怪獣の力を一時借りて個体の五感を怪獣サイズにまで拡張する事を可能にせしめる。

こうして怪獣サイズに五感を拡張する事で、人間は個体サイズの五感から得られる情報からいったん離れ、自身をも豆粒の様に俯瞰する事ができるほどに多くの情報を得る事になる。

個体の限界を越え、怪獣サイズに五感を拡張する事。それは社会的所有を持つ、ヒトと言う種ならでは最大の特徴である。
つまり、
人が人である以上、社会とは不可分であり、あらゆる人間は社会とのサイボーグなのだ。怪獣サイズに膨張しない人間はいないのである。


しかしだ。


人の五感を拡張せしめ、モノを考えることを可能にしたのは社会という怪獣だが、個体の思考を束縛するのもまた、同じ怪獣=社会ではないか。

なぜならば、地図やテレビのニュースといった、僕らが日々接する情報も、情報交換に使用する言語も、概ねが社会からの借り物であり、僕達個人に、それを自由にできる権限がほぼないからだと言えるだろう。

僕らが社会の共有財産の所有者でもあるというのは凡そ、まやかしの様なものであり、神聖なる社会的所有を勝手に変えたり無茶苦茶にする事はとても難しいのだ。

例えば、
信号機をハバノフと名付けたり、アメリカを北海道よりも小さいと吹聴する事は個人の自由ではある。

しかし、
何の権威もないちっぽけな僕が信号機をハバノフと言い張ったところで、誰にも信号機のハバノフっぽさが伝わらないだろう。結果、信号機ハバノフ論は多数の支持を得る事なく「妄想」や「誤った情報」の烙印を押される事になるのである。

信号機というモノや概念や言葉は
僕がこの手と頭で作り上げたものではなく、
アメリカや日本に関しての情報や歴史や常識は
僕がこの足と目で確認して来たものではない。

何度も強調するけれど、
それら全ては、僕という個体のキャパシティを遥かに越えた領野からの借り物、ちっぽけな一個人がいたずらする事は基本的には御法度の、云わば「神聖なる借り物」である。

そして、
人と社会的所有とは不可分なわけだから、個体と一体化しているその大部分が、実は個人で勝手に手を加える事の難しい神域なのだ。

人間の内にある、硬直した領域。神域。
「神聖なる借り物」は僕らに怪獣の視座を与える事で五感を拡張し、より広範な思索を可能にせしめる半面、その考え方やモノの見方等、あらゆる部分で、実は僕らを束縛する事に気づくだろう。僕らがモノを考えるために「神聖なる借り物」に頼らなければならない以上、自分の頭で考える事はほぼほぼ不可能な事だと分かる。



では、
僕らを束縛する「神聖なる借り物」にアクセスし、それを改変する方法はあるのだろうか?

先ほど述べた様に、
ちっぽけな僕などが信号機をハバノフと改変する権限が無いのは明らかである。個人が「神聖なる借り物」を改変するには、相応の権威が必要であり、そのためには社会というヒエラルキー構造の上部にいる必要がある。

「神聖なる借り物」を改変する権限を持った人達とは、結局はただただ社会的に絶大なる力を持った人達なのだ。

「神聖なる借り物」をそっと改変する事は、そのまま僕やあなたの頭の中を知らぬ間に作り替えてしまう事に繋がる。全ての人間は「神聖なる借り物」である社会的所有と不可分に結びついたサイボーグなのだから。

そう。

歴史ですらもそっと改変されてしまうならばどうだろう?僕らの信じていた賢さが愚かさに、美しさが醜悪さに、ひっそりと入れ替わってしまうとしたら?

荒唐無稽な話の様だけど、
このような社会的所有の改変は、遠い未来の話ではなく人の歴史の中で絶えず現在進行形で起こり続けている事ではないだろうか。

そして、
そうやって知らぬ間に作り替えられていく頭で、自らの変化を客観的に認識する事は、とてもとても困難な事だと思う。


そこから逃れる事はおろか、その認識すらもほぼ不可能というわけである。

とは言え、
ちっぽけな僕にできる事も幾つかある。

それは

日記や音楽や動画、生きた記録を残す事。
そして、
記録を現在の視点で改変しない事。


そうやって個人の生きた記録のみが、ひっそりと変わりゆく現在に対して小さな違和感を発し続ける事にはなるのではないだろうか。

そう。
信じて積んでいこう。





なんと。

本日のダラダラと長い記事にも大した!意図があったわけなのだ。

というわけで、

今日の日の記録はここに締める事にしよう。