妄想放浪記

三十代男の日々の徒然。音楽、映画、ゲーム、妄想世界の放浪日記。

ひきこもりのすゝめ

人それぞれ様々に縁を持つ。

生まれたての頃は親兄弟だけだった縁も、身体の成長に伴って横に縦に広がっていく。
親類、学校の友達、上司に部下、配偶者、子供。
やがて、ひとしきり広がった縁は徐々に収束していき、最後に死と向き合う時は、とうとう独りになるのである。

人の一生はよく線香花火に例えられる。
最初はぼそぼそと始まって、パチパチ火花を散らし、最後はしゅんとなって闇に落ちるわけだ。
縁が徐々に広がってやがては独りになる、そんな一連を連想させる。


ところで、
三十半ばの僕は、
ちょうど働き盛りであり、今まさに線香花火がパチパチ弾けている状態。
縁が縁を呼ぶ、そんな確変状態な訳だ。

ただし、
僕が理想的な社会人であり、それなりの環境に身を置いていれば、の話である。

そう。
僕はなるべく働かない生活を送る、ほぼ無職だ。

三十半ばにして、様々な縁を遮断。
線香花火で言えば、火花をパチパチ散らす状態はとうに過ぎ去り、ぼそぼそと手じまいの準備を始めている。
そんな働き盛りの三十代にあるまじき状態。
まるで死に近づいて枯れていく晩年の有り様だ。


しかし、
僕は今の状態に、実はそこそこ満足している。


確かに、
世間一般の全うな社会人の如く、パチパチと火花を広げる様に人と縁を広げて、色々な刺激が欲しい。
そう思う時も無いではない。

だが一方で、
僕は人間関係を煩わしく感じる事が多いのもまた事実だ。人間と付き合う事から得られる楽しみよりも、その面倒くささが勝ってしまう。

また、
人間から得られる刺激に、どこかで諦めがあるというのか、単に飽きたというのか、新しい人と知り合ってワクワクする事もホント少なくなった。

人を類型化して見る。どこかでそのタイプを既に知っており、この人はこういうタイプの人なのね、とついカテゴライズしてしまう。そして、そういったカテゴライズが割と当たっていたりもして、数少ない新しく知り合った人間から新奇な刺激を得る事が、最近ではほぼ無いのが経験的事実だ。

まあ、単に僕の頭が老いて、腐ってきているだけかもしれない。とは言え、そんな僕でも未だ、刺激の尽きない事は幾つかある。

例えば、僕は音楽を作ったり人前で演奏したりする。
勿論の事、それはお金を稼ぐための仕事ではない。現状お金に全くならない。
ただ、音楽とは単なる趣味と言って割り切れるほど淡白な関係でもない。

音楽に関して一度も専門的な教育など受けた事はないが、十代のころからいつの間にかそこにあって、止めたり、また始めたりしながらも、何だかずっと燻り続けている。

それを此方が好む好まないに関わらず、引き寄せられる様に繋がってしまう縁があるわけで、そんな縁は、俗に腐れ縁といわれたりする。

縁という言葉は、実際、人間関係に対してだけではなく、自然や物や事に対しても使う事のできる、広がりを持った概念でもあるのだ。

僕にとっての音楽はそんな感じで、パチパチというよりはブスブスとぐずりながら繋がっている腐れ縁だと言えるだろう。腐りながらも強力に繋がっているこの縁のおかげで、僕の場合、人間と縁を結ばなくても、毎日の刺激を保てている訳である。

人は所詮、出来ることしか出来ない。縁とは、結局はなるようにしかならないのではないか。

木が柔らかい栄養豊富な土を求めて根を張るように、人は自身の糧になるものを求めて方々に手を伸ばす。

ある木にとっての貧弱な土壌は、別の種の木にとっては栄養豊富な最適な環境かもしれない。木によっては、伸ばした根を跳ね返す様なカチカチの土を好むものさえあるが、重要なのは、その木の性質と生まれ落ちた環境との組み合わせである。

運が良ければ、目と鼻の先にその木にとって栄養豊富な土壌があるかもしれないし、生まれ落ちた場所が悪ければ一生かけて根を伸ばしても自身の糧にならない貧弱な土ばかりかもしれない。

人もまた同様ではないだろうか。

Aさんは様々な人間と付き合う事から自身の糧となる刺激を得るかもしれない。となればその人は、多くの人と知り合う事を好み、そういった場所に常にその身を置ける仕事を選ぶだろう。Aさんの意志と、その身を置く環境が一致すれば、Aさんの縁は、線香花火がパチパチ爆ぜる様に、木が旺盛に根を張る様に、広がるはずである。

Bさんは山や海といった自然と向き合うことに刺激を見出し、そこに多くを学ぶかもしれない。そうであれば、その人の時間は積極的に山や海に割かれるはずである。しかし、Bさんが山や海の仕事ではまともに食っていけず、生活の大半を都会でのアルバイトに費やしてしまうならば、必然的にBさんと山や海との縁はなかなか強固なものに育まれていかないだろう。

人それぞれにとっての栄養豊富で刺激的な場所が、人間関係だっり、山や海であったり、ひょっとすると独りの部屋だったり、各々異なっている。そして、そういった各人の性質と生まれ落ちた環境との相性によって、縁の広がり方が決まる。

つまりは、
縁とは結局なるようにしか成らない部分が大きいわけだ。


そう考えると、
「三十代半ばは働き盛りで線香花火をパチパチやるみたいに縁が縁を呼ぶ状態である」とか上述したけれど、それは実はほとんどの人達に当てはまらない、かなり理想化されたステレオタイプの様に思えてくる。

多くの人達は縁を繋げたくとも繋がらない。うまく広がらない。やりたくもない事に日々を忙殺される。そんな大人ばかりではないだろうか。


現代社会における凡その仕事は、人と人の間を取り持つ場に在る。自然を相手にする農業や漁業といった第一次産業は先細りしていく一方で、人と人との間を取り持つ仕事は数多い。

コミュニケーションが好きで好きでたまらない。
そんな生得的な性質を持った人達にとっては、今の社会は、木の根を延ばすように縁を広げるのに、最適な土壌だと言えるのだろう。


そう。

もしあなたがシケた花火みたいにぼそぼそやってるとしたならば、それはきっとコミュニケーション能力を強く問われるこの世の中のせいである。

あなたが生まれ持った性質にとって最適な環境が、あなたの身の回りになかったからだ。生まれ落ちた場所が悪かったのか、時代が悪かったのか。

あなたはきっと大らかに大地に根を張るべく、縁を方々に広げるべく、この世に生まれ落ちたはずである。ただ、現代社会はあなた方の多くを、容易には受け入れてはくれないだろう。

だからといって決して腐ってはならない。

所詮なるようにしか成らないと知りながらも、意識的にあなたに合った縁を引き寄せる努力はきっと無駄ではない。

まずは何とかして自分を育んでくれる最適な土壌を見つける事である。

もっともあなたの選ぶ物事がお金にならないのであれば、やはり働く時間は必要で、完全な満足を得る事はキビシいかもしれない。しかし、意識的に生活の中から無駄を省く事で少しは今よりマシになるのではないか。ここで言う無駄とは、各人にとって異なるが、ひょっとすると現代社会で消耗している多くの人の場合で言うならば、それは人間関係であるかもしれない。

そこが、あなたにとって、もはや刺激を得る事の少ないカスカスの土壌であるならば、さっさっと撤退すべきである。ズルズルと無駄を引きずるぐらいならば、ひきこもるほうがよほど健全なのだ。



この世界には、華やかな社交場を好むヤツもいれば、沼地の様な環境を好むヤツもいる。あなたが、仮に後者だとしても、決して恥いる事は無い。人それぞれ異なるのはとても自然な事で、あなたにのみ繋がる縁が、きっとあるはずである。僕も、なるべく無駄を遮断して、自身に繋がるはずの縁を日々手探りしている。こういった縁の繋がりに敏感になるためには、社会からの雑音を極力シャットアウトする。雑音を排する事ができるならば、自身の五感の解像度は少し上がるはずである。解像度の上がった五感で捉えた世界は、あなたの眠っていた好奇心をそっと呼び起こすかもしれない。

そんな訳で、
コミュニケーション能力の問われる社会生活に疲れきった人は、まずはひきこもってみては如何だろうか。そこには、人間では無い何かとの素晴らしい出会い、あなたにしか繋げない縁が待ち受けていても不思議では無い。