新元号という石ころについての考察
たまに電車に乗った時、ふと吊り広告を見ると、結構過激に右寄りな雑誌の広告がフツーにあったりして、その違和感が凄い。知らぬ間に、自分はパラレルワールドにでも迷いこんでしまったのではないかと、想像さえする。
「令和を貶める人たち」
これ、その中の一つの記事の見出しである。
デーヴ・スペクターやら田原総一朗やら「令和」のネーミングを批判をした人たちやり玉に挙げる内容の様だ。
しかし、、、
ちょっと笑ってしまうトコないですか?
いい年した大人が顔真っ赤にして怒っている姿が目に浮かんでしまうもの。
その切れまくってる人にとって、元号て、そんな大切なのものなのだろうか。
うん…
きっと彼にとっちゃあ、それがとても大切な事だからプンスカしているのだろうな。
僕にとっては、
まあ正直どうでもいい。
確信犯的な黙殺である。
しかし、
本音のところ、
新元号のネーミングについて人々が大騒ぎする理由も分からなくはない。
新元号は新しい言葉であり、あらゆる言葉には言霊が宿るからだ。
言霊とは、人や物や事に何らかの影響を与える言葉の力の事である。例えば、西暦2019年が新元号の元年とされたが、この「元年」という言葉にあやかって、各地では新元号元年セールが実際、催されている。これは言葉が物事に影響を与える一例である。
新元号を知らない人にとってはただの2019年なのだけれど、一度言葉にされ認識されたなら、2019年5月からが新元号の「元年」であり、「元年」なのだからとセールしたりお祝いしたりする気分になるわけだ。「元年」という言葉は、世界をキラキラと輝かせるフィルターであり、この言葉の効力に引っ張られる形で、実際に各地でバーゲンが行われる訳である。
同様に、「令和」という言葉もまた、きっと周りに影響を与える力、つまり言霊を宿している。しかしながら、それが僕達にどういう影響を与え、どういう時代となるのかは、後の時代から振り返ってみないと分からない。
先に断っておくが、僕は「令和」、好きではない。意味は置いておくとしても、響きや字の見目すら良くないと思う。なんか陰気臭い。
だが、
好きではない半面、よく考えられいると感心せざるを得ない。
というのは、
好きな人と嫌いな人がはっきり分かれる、鋭さを持った言葉だからだ。その響きもさることながら、この「令」という字。令月の「令」か、命令の「令」か、いずれの意図にしろ、この「令」という字を使っている点がまた、確信犯的だと思う。どちらの意図が込められているのかは、この際、実はどうでもよくて、新元号が議論を呼び起こす事こそ、この「令」という字が用いられた最大の意図かもしれない。「令」は、新元号に皆の耳目が向かざるを得ない強い文字である。
新元号を絶賛する事と同様に、これについて否定的意見を述べる事もまた、この新元号の力を増す事となる。アンチが騒ぎたてるほどに、この新元号はより多くの認知を得る事になるだろう。そして、騒ぎ立てた所で新元号が今更変わる訳でもなく、アンチの言説が尽きた頃には、結局の所は無言の承認を与える形になる。まさに炎上マーケティングの原理である。
「令和」が皆の頭に刷り込まれるとともに、時代はこの新元号の言霊に引っ張られていく事になるかもしれない。
だが、
なるべくなら、どこかの老いぼれた権力者の決めた言葉などに右往左往される事なく、自分なりの道をマイペースに歩みたいものである。
だから、新元号についてあーだこーだ言うのは、正直、気が進まない。
批判するのすらペースに乗せられているみたいで恐ろしい。石ころの様になるべく意識し過ぎる事なく気楽に避けていたい。言説を増やす事で、言葉の持つ霊、言霊に力を与えたくない。
たかが、元号やないか。
どうでもいいわ。
というスタンスでいたい訳である。
そもそも、
「平成」の元号が発表されたとき、そんな騒いだっけ?
幼かったので忘れてしまったが、皆、まだまだ無関心ではなかったか?
たかだか元号の事で、今回の様に、皆さん顔真っ赤にして、喧々囂々してた?
どうだろうか。
しかし、
かく言う僕も、電車の吊り広告のパラレルワールドじみた異様さに釣り出されて、今回、この記事をもって新元号に関する言説を一つ増やしてしまったわけだ。
いやいや。
新元号も本記事も、たかが石ころ。
さほど気にする事はないのである。