妄想放浪記

三十代男の日々の徒然。音楽、映画、ゲーム、妄想世界の放浪日記。

妄想世界をブラついて

ほぼ無職の僕が毎日をどうやって過ごしているか。

ゲームをする。本を読む。映画を見る。
ネット徘徊。YouTubeを見たり云々。

要するに、日々の多くを、どこかの誰かが創り出した世界で過ごしている。

だが、きっとそれは僕に限った事ではない。たまに電車に乗れば、皆スマホを弄ってゲームやネットで何やらやっている。

今では皆スマホに夢中だが、僕が高校生の頃は、電車の中では本や雑誌を読んでいる人が多かった。
心此処にあらずの感じは、メディアは異なれどよく似ている。

そもそも、
云千年前から、暇があれば人は神様についての物語に熱心に耳を澄ませていた。

その頃からずっと、人は何処かの誰かが妄想した世界の中で遊んでいたのだ。


妄想という言葉には病的な響きがある。

そういう意味で、
神々のお話が妄想的だという事はよく理解できる。息子を殺して象の首にすげ替えたり、神の目や吐瀉物や糞から新たな神々が生じたり。せん妄状態の幻覚さながらにサイケデリックで病的だ。

しかし、これを病的で妄想的だと感じるのは、僕らが神々の世界が多数に支持されない現代を生きているからだ。古代の人間にとっての、神話世界の感じ方は我々とは全く異なったものだったに違いない。

古代人にとっての神話とは、妄想的なものではなく、歴史であり、真理だった。

多数に支持されない妄想は、「せん妄状態の想像」とされるが、何処かの誰かの妄想が多数の支持を得る時、それは時に世界の起源とされ、真理とされるのである。


では、我々にとっての、ネットや本、映像メディア上の情報等はどうだろうか。それはものによっては妄想的であるが、時に真実味を帯びていたりもする。

しかし、
文章や映像や歴史ですらも、何処かの誰かの頭の中がその大元だとするのならば、そもそも全ては根拠無き妄想がその起源なのだ。だとすると、その真実味もまやかしに過ぎない。

ただ、真理の椅子を獲得した妄想は、あまりに自然に僕らと共にあるものだから、上手く見分ける事ができないだけではないのか。

愛と平和や金や科学や健康

僕らが信じ込んでいる正しさは本当か。
未来人からすれば、現代人は可笑しな迷信に生きているように見えるかもしれない。



ところで、

電車でスマホに夢中の人達を見る時、また、近くのブックオフで山の様に積まれた漫画や本やDVDを眺める時、ふと不安を感じる事がある。

こんなにも世の中に妄想世界が溢れていて、それら妄想世界は、実は真理への予備軍でもあるわけだ。そんなめくるめく妄想世界がもの凄い速度で膨れ上がっている。店には本やDVDが溢れ、ネットには無数の企業や個人が投稿した文章や映像が秒単位で更新されていく。そんな中から、皆を虜にする何処かの誰かの全く新しい妄想が生まれてもおかしくはない。未知は、わくわくする半面、とても恐ろしくもある。

愛や科学等は、現代では未だに多数に信じられ真理とされている妄想だが、そういった全てが「せん妄状態の想像」とされる時も、思ったほど遠い未来の話ではないかもしれない。

そんな事を妄想しながら、
今日も誰かの妄想世界をブラついている。