妄想放浪記

三十代男の日々の徒然。音楽、映画、ゲーム、妄想世界の放浪日記。

ゲームレビュー 『レッド・デッド・リデンプションII』 暴力と荒野について考えたこと その1

レッド・デッド・リデンプションII』(以下RDR2)を遊んで考えたこと。

ストーリーについては、他に書いてあるだろうから此処では特に触れない。
なのでネタバレなしです。


ロックスター・ゲームスのGTAシリーズなどは、しばしばその暴力性が社会問題とされたが、今回のRDR2では今までの同社のシリーズにも増して、軽はずみに暴力を行使してしまう自分がいる。特にそこが人の気配のない荒野であるならば、ちょっとした「はずみ」で人を撃ち殺してしまう。金目的や正当防衛、気に障った等々、理由は種々あれどひたすらに銃のトリガーは軽い。

何故だろうか。

キャラクターの動作はもっさりと重いが、それ故に殴る蹴るの手応え、質量感をしっかり感じられる。銃声は渋く重く気持ち良く響く。こうしたリアリティを追求した作り込みが暴力をふるう快感につながっている事は間違いないが、本作ならではの特徴として、しばしば此方の意図せぬ形で暴力をふるう事を強制される点がある。


何だか分からんが殴りかかってくる町人に、拳で応対すべく、ボタン連打していたら、主人公がおもむろに銃を抜いて撃ち殺してしまう。

町人に挨拶しようとL2ボタンを押したら、いつの間にか装備していた銃を向けてしまい、殺しあいになってしまう。やむなく撃ち殺す。

間違って他人の馬に乗ってしまい馬泥棒扱いされる。殺されそうになって撃ち殺す。

そうこうする内に懸賞金が上がり賞金稼ぎが追いかけてくる。生きるために撃ち殺す。撃ち殺す。

こうしてプレイヤーは暴力を行使する事に徐々に慣らされていく。

あげく森を独りさ迷う爺さんを、宝の地図を奪いとるべく平然撃ち殺せるようになり、人のいない荒野では殺しをごく自然に、時に気まぐれに行うようになる。


RDR2では、その複雑な操作性、リアリティを追求したゲームシステムゆえに、最初の内は、誤って殺す事や、やむなく殺す事が多い。が、その操作の複雑さやゲームシステムに慣らされた頃には、プレイヤーの銃のトリガーはますます軽くなっている。殺しは日常感覚になり、ちょっとした「はずみ」の出来事、些事になる。


そして、

そのちょっとした「はずみ」で殺したり、気まぐれに助けたり、といった感じが、妙に西部劇の無法者っぽくて格好良いのである。知らず知らずの内に19世紀末のアウトローになっていく。

ロックスター・ゲームスの狂気のこだわりは、失われたアメリカをディスプレイ上に再現するのみならず、プレイヤーの内面に19世紀末のアウトローの精神をもインストールしようとしているかの様だ。

殺し殺される荒野での生。生き死にも、狡さや残忍さ、時に優しさも、気まぐれに決まる。そんな感じ。

19世紀末のアメリカ人、そのアウトローの精神、日常感覚、死生観はどんなものだったのか。それは、もはや神話の時代ものと言っても過言ではないほど遠く、我々、現代人には理解しかねるだろう。きっと理解できないと思う。
が、RDR2を遊んでいると、多少なりとも、それに触れられた気にさせられる。

次回に続く。