ゲームレビュー 『レッド・デッド・リデンプションII』 暴力と荒野について考えたこと その2
前回記事では、『レッド・デッド・リデンプションII』(以下RDR2)における暴力行使の軽快さについてあれこれ書いたが、今回記事では、これについてもう少し踏み込んでみたいと思う。
RDR2における、暴力の行使へのハードルは低く、拳銃のトリガーは羽の様に軽いのは確かだが、それはあらゆるシチュエーションに共通して言える事ではない。
暴力行為が軽快に成されるシチュエーションというのは、とにかく人目が少ない場所、つまり荒野である。町において銃をぶっ放す事自体は簡単な事ではあるが、すぐに法務執行官がやってきて銃撃戦に突入する事は必至である。必然、町における無法行為には、それなりの覚悟が必要とされ、ここでの暴力は軽快に成されるものとは言い難い。とは言え、町でも暴力行為も可能と言えば可能なのだ。
が、そもそもその選択肢すら無いシチュエーションがRDR2には在る。それは、主人公アーサーの所属するギャング団のキャンプ地だ。
ここでは、拳銃を撃つどころか、銃を眺めたり手入れする事すら禁じられている。そもそも、コマンド画面から銃を取り出す事ができないのだ。
これはどういう事か。
当たり前の話だが、キャンプ地でアーサーが他のメインキャラクターを殺しでもしたら、そもそも物語が立ち行かなくなる。これはゲームという娯楽を成り立たせるための自明のルールだ。
しかし、そういったシステム上の必要性だけが、アーサーがキャンプ地で暴れられない理由なのだろうか。
僕は、アーサーがギャングのキャンプ地で銃を抜けないのは、ここが彼にとって唯一、法が機能している場所だからなのではないかと思う。
ここで言う法とはギャング団の法である。
法がアーサーに染み付いている。
銃を抜くという選択肢すらコマンド画面から消えてしまうほどに。
このキャンプ地におけるアーサーは、隅々まで国家の定める法の浸透した現代を生きる僕にとっても理解できそうな近しい存在である。
現代人の日常生活において、凶器を取り出す、あるいは、殴りつける、等といったコマンドを、選択肢の一つとして用意している人間は一体どれだけいるだろうか。キャンプ地のアーサーの様に、そもそもコマンド画面からその選択肢が抹消されている人間がほとんどではないか。
法は我々に浸透し、内化している。そこに自由な選択肢がある事すら忘れ去ってしまうほどに、我々と法は一体なのかもしれない。
RDR2に、話を戻そう。
兎に角、アーサーにとってのキャンプ地とは我々にとっての日常に近い。
そこでは殺す事は出来ないが、殺される事もまた無い。自由はないが、安心はある。食事は毎日供されるし、ベットもあれば共に遊ぶ友人もいる。
ギャング団のキャンプ地だけがアーサーにとっての「内側」だと言えるだろう。
一方でキャンプ地以外は、アーサーにとっては全てが「外側」だとも言える。
「外側」では命を失うかもしれないが、何だって出来る。
何故ならそこには彼が遵守すべき法が無いからだ。国や州の法律は彼にとっては機能しない。それはせいぜい、かいくぐるべき厄介なハードル、といった程度のものなのだ。
RDR2をプレイしていて、新鮮に感じる点とは、前回記事にも書いたように、その暴力行為の軽快さである。「はずみ」で人を殺す。また時に気まぐれで人を助けたりもする。
こういった行為は全て、アーサーにとっての「外側」、主に、人気のない荒野において成される事になる。つまり、RDR2のどこに新鮮さを感じるのかと言えば、荒野における生、国家による法の浸透した世界の「外側」を体感できると言うことに尽きるのかもしれない。
RDR2は、その「外側」の世界がまだギリギリ身近にあった最後の時代、逆に言うと、「外側」の世界がどんどんと狭くなって行く時代を舞台とした物語だ。なので、如何に荒野と言えども、犯罪行為は気を抜くとすぐに通報され、法務執行官や賞金稼ぎがやってくる。都市部は路面電車や人々でごった返し馬を走らせるのにすら気を配らなけねばならない。いよいよ資本家達が幅をきかせ出す時代である。西部の終焉と共に、資本主義全盛の現代へと繋がる始まりの時代を、RDR2では見事に描き出しており、その息苦しくなっていく感じすら、アーサーを通じてプレイヤーに追体験させてくれる。
全てが法の「内側」へと回収されていく現代において、法の「外側」をプレイヤーに追体験させるGTAシリーズやRDRシリーズが爆売れするのは理解できる。皆が、荒野を、殺し殺される、許し許せる自由を求めているのだ。誰かが定めた法の名の下ではなく、自分の意思と責任で、時に気まぐれに、力を行使する自由を。
ただし、現実世界で「外側」を希求するのは、とても危険な事だ。だから、とりあえず、ゲームなのである。
そんな素敵なゲーム、RDR2。
お勧めです。
ゲームレビュー 『レッド・デッド・リデンプションII』 暴力と荒野について考えたこと その1
『レッド・デッド・リデンプションII』(以下RDR2)を遊んで考えたこと。
ストーリーについては、他に書いてあるだろうから此処では特に触れない。
なのでネタバレなしです。
ロックスター・ゲームスのGTAシリーズなどは、しばしばその暴力性が社会問題とされたが、今回のRDR2では今までの同社のシリーズにも増して、軽はずみに暴力を行使してしまう自分がいる。特にそこが人の気配のない荒野であるならば、ちょっとした「はずみ」で人を撃ち殺してしまう。金目的や正当防衛、気に障った等々、理由は種々あれどひたすらに銃のトリガーは軽い。
何故だろうか。
キャラクターの動作はもっさりと重いが、それ故に殴る蹴るの手応え、質量感をしっかり感じられる。銃声は渋く重く気持ち良く響く。こうしたリアリティを追求した作り込みが暴力をふるう快感につながっている事は間違いないが、本作ならではの特徴として、しばしば此方の意図せぬ形で暴力をふるう事を強制される点がある。
何だか分からんが殴りかかってくる町人に、拳で応対すべく、ボタン連打していたら、主人公がおもむろに銃を抜いて撃ち殺してしまう。
町人に挨拶しようとL2ボタンを押したら、いつの間にか装備していた銃を向けてしまい、殺しあいになってしまう。やむなく撃ち殺す。
間違って他人の馬に乗ってしまい馬泥棒扱いされる。殺されそうになって撃ち殺す。
そうこうする内に懸賞金が上がり賞金稼ぎが追いかけてくる。生きるために撃ち殺す。撃ち殺す。
こうしてプレイヤーは暴力を行使する事に徐々に慣らされていく。
あげく森を独りさ迷う爺さんを、宝の地図を奪いとるべく平然撃ち殺せるようになり、人のいない荒野では殺しをごく自然に、時に気まぐれに行うようになる。
RDR2では、その複雑な操作性、リアリティを追求したゲームシステムゆえに、最初の内は、誤って殺す事や、やむなく殺す事が多い。が、その操作の複雑さやゲームシステムに慣らされた頃には、プレイヤーの銃のトリガーはますます軽くなっている。殺しは日常感覚になり、ちょっとした「はずみ」の出来事、些事になる。
そして、
そのちょっとした「はずみ」で殺したり、気まぐれに助けたり、といった感じが、妙に西部劇の無法者っぽくて格好良いのである。知らず知らずの内に19世紀末のアウトローになっていく。
ロックスター・ゲームスの狂気のこだわりは、失われたアメリカをディスプレイ上に再現するのみならず、プレイヤーの内面に19世紀末のアウトローの精神をもインストールしようとしているかの様だ。
殺し殺される荒野での生。生き死にも、狡さや残忍さ、時に優しさも、気まぐれに決まる。そんな感じ。
19世紀末のアメリカ人、そのアウトローの精神、日常感覚、死生観はどんなものだったのか。それは、もはや神話の時代ものと言っても過言ではないほど遠く、我々、現代人には理解しかねるだろう。きっと理解できないと思う。
が、RDR2を遊んでいると、多少なりとも、それに触れられた気にさせられる。
次回に続く。
マニーと名誉
僕は雀の涙程の金額を日雇いで稼ぐ以外は貯金を切り崩す生活という、ほぼほぼ底辺無職なのだが、それゆえにお金について日々考える機会が多い。
お金とは何か。
それは、死なないため、毎日を心地よく暮らしていくための万能交換チケットだ。
ありすぎて困ることはない、腐ることはない。
金、カネ、Money。
日本語のカネという響きよりも、英語のマニー、にはハニーに似た甘美な響きを感じる。
花の蜜に群がるミツバチよろしく、人はみなマニーの匂いにクラクラ引き寄せられてしまう。
そんなみんな大好きマニーなので、それを他人から譲ってもらう事は極めて困難なのだ。
労働という長時間の肉体的精神的拘束や、よほど魅力的なモノやサービスとの交換でなければ、それなりのマニーを得ることは難しい。マニーと交換可能な商品とは、やはりかなりのマニーかそれに相当する膨大な時間のかかったものばかりだ。
エンタメの世界を例に出すならば、トリプルAタイトルのビデオゲームであるとか、やや凋落気味ではあるがハリウッド超大作とか、そういったものには人は比較的容易にマニーを差し出すだろう。
しかし、例えば自主小説、あるいは自宅で録音した音楽、在野の音楽家の魂の一曲はどうか。それが例え渾身のものであったとしても、何千人の人たちが何億という金をかけ年単位の時間をかけて作り上げる超大作(しかも安い!)の横に並べてしまうと、どうしても見劣りしてしまわないか。マニーはどちらに多く流れるか。一目瞭然だろう。
マニーはマニーの匂いが大好きだ。マニーとマニーは惹かれあう。
手と手を取り合ってグロテスクなほどに増殖する。
怪物的超大型複合ショッピングモールの様相。
寂れ果てた商店街と自称作家、音楽家云々は同一レイヤーでも語り得るかもしれない。
ところで、
名誉職とはマニーの代わりに、名誉を戴けるという大変有難い職業である。
例えば、名誉会長などはなかなか成りたくても成れるものではない。
マニーはもう十分に稼いで、懐の潤いまくったお年寄りが人生の檜舞台の最後の最後に就任することができる、そんな憧れの職業。
と言ったら言い過ぎだろうか。
「宵越しの金は持たない」が、例えば古のサンビスタの間で美徳とされたように、その昔、様々な国や文化でマニーと名誉はお互い相反する世界があった。しかし、いつの間にやらマニーで名誉が買えるようになり、名誉職はマニーの潤沢な者たちの最後の特権職のようになってしまった。また、一方で名誉は社会的評価のバロメーターとなり、マニーを生み出す源泉となった。
もはや、マニーと名誉はズブズブの関係なのだ。
しかし、
そうなってくると、マニーの匂いから遠ければ遠いほど、昔ながらの本来の名誉職だと言いたくもなる。
まあ、そんな皮肉を込めて、
名誉音楽家として僕は自らで自らに勝手に名誉を授ける事にした。
「名ばかりの誉れ」はいくらでもあげられます。
無用の長物。
良ければお一つ如何でしょう?
エイプリルフール2019
ものは試しに思ったまま、なるだけ客観を意識せずに、ブログなるものを始めてみようと思う。
まあ、見栄え良い文章にしようと気張ると続かんやろうから。
自分は音楽やってるのだが、はっきり言うとその広報のためだ。
一切客が増えずに困っている。
広報その1
バンド名がrosetownで、曲名が焦土??という。
広報終わり。
あとは、ブログが日々の肥溜めになってくれれば尚のこと良い。