妄想放浪記

三十代男の日々の徒然。音楽、映画、ゲーム、妄想世界の放浪日記。

猛暑にスマホ

暑すぎてやってられない。

 

何か始めなければと思うだけで、スマホ弄って時間がダラダラと浪費されていく。

 

スマホの、手の平一つに収まるという、その小ささは実に画期的、悪魔的発明だと思う。

 

パソコンの前に座るのすらダルいときには、ゴロゴロしながら指一本で遊べる。

 

驚くべき無為な時間。

まさに時間を潰している。

 

ネットに刺激的な情報が転がっている事は稀だ。

というのも、ネット上の大概の情報は底が抜けている、即ち、大概の情報には反証があり、その反証にもまた反証がある。反証と反証に対する反証が、山のように積みあがっていく現在進行形のプロセスを前にして、もはや無常感しかない。

 

ダラダラゴロゴロしながらのスマホ弄りは実に退屈極まりないのだけれど、味の抜けたガムをクチャクチャやる感じで何となく止められない。

 

積んでは崩す積み木遊びのような無意味さと無常感。意味のない反復運動のもたらす催眠効果と中毒性は、遊戯の本質である。

 

そう、

スマホはちょっと便利なオモチャという程度のモノであり、それ以上でも以下でもない。少なくとも自分にとっては。

 

暑さ猛々しい本日も

貴重とされる人生の時間を、スマホでせっせとすりつぶしている。この駄文などは、さしずめすりつぶされた時間の搾りカスといったところ、味の抜けたガムである。

小さな事からコツコツと→諦めのススメ

毎日コツコツと積み上げるのは難しい

ブログやYouTubeなど、今の時代、個人が発信する手段は無数にあるが、発信したところでそこに反響が帰ってくる事は稀だ。本ブログの如く、閑古鳥が鳴きまくって耳が痛い人は多いのではないか。

 

友人にブログに反応が帰ってくるどころか、その収益化に成功している者がいるが、彼曰く、最低百記事は必要らしい。

 

百記事…

僕のような怠け者にとっては途方もない数字である。とても到達できる気がしないはるかな高みに思える。

 

だから、ここでは

如何にして継続的にブログを積み上げて百記事に到達する事ができるのかを、考えてみよう。

 

やはり何らかの「手応え」を感じない限り、ブログを続ける事は難しい。

もし、記事を書く毎に、読者から何か反応が帰ってくるとしたならば、それはブログ継続の強いモチベーションになるはずだ。

 

例えば…

山を登るとして、歩けども歩けども風景が麓の雑木林から変化する事がなかったらどうだろうか?

最初は体力に任せて進むものの、風景の変化しないことに飽き、疲れ、歩む速度は低下。次第に、ちゃんと山頂に向かって進んでいるのかどうか、それすらも危ぶまれ、歩みは止まり、果ては引き返す道を探し始めるのではないか。

 

これをブログ執筆に当てはめるならば、一歩一歩の歩みが執筆行為、山頂に向かって変化する風景が、読者数の増加やそのフィードバックである。風景が少しずつでも変化していくならば、道程はより楽しくなり、何よりも一歩一歩が前進に繋がっていることに確信がもてるはずだ。

 

やはり、ブログ執筆の毎に何らかの読者からの反応があれば、それは次の記事へのモチベーションになるはずである。

 

しかし、某友人曰く、まず、最低、百記事はなけりゃ話にならん、百記事あたりが読者の反応が帰ってくるスタート地点だと言うのである。

 

百記事までは云わば山麓の雑木林だと言う事なので、見晴らしの良い風景は百記事到達の先に待っている。とは言っても、それは決して確約されているわけではなく、百記事積んでも閑古鳥が鳴くという結果も十分に有り得る。

 

そもそも百記事までの道ですらフィードバック無しだとキツくて折れそうだいうのに、見晴らしの良い風景に続いているかもわからない道を孤独にひた走るなんて土台無理な話だ。

 

しかしそれでも、

ブログを続けようという固い意志と怠惰の性質を併せ持つ僕のような諸君に言いたい事。

 

それは「諦めろ」である。

 

読者に何らかの反応を期待してはいけない。何も期待するな。諦めた先にこそ未来がある。

 

そもそも読者に何かを期待すると、何とか読者に分かりやすいものを作ろう、ウケるものを作ろうという意思が働く。それは執筆活動に、良くも悪くも、プレッシャーを与える。良い作用としては、客観を意識する事、独り善がりな文章にならない事であるとか、様々在る。良い面は即ち、悪い面にも繋がっており、客観を意識し丁寧になることで、執筆に時間がかかる。手間をかけるほどに反応を期待し、案の定無反応に終わると、勝手に期待したせいで、勝手に落ち込む事になる。次第に執筆作業が「重たく」なり、そのうち億劫になる。

 

このような悪循環の根元にあるのは、

読者が存在するという、また、読者が何らかの反応を寄越すという、発信者の勝手な期待である。

 

であるならば、

端から期待などしなければ良い。

 

ブログなどは、誰の目にもとまらない便所の落書きの如きものである。落書きは、そこに何かの反応を期待して描くものではないがゆえに、落とし書きなのである。

 

これはしばしば肝に銘じなければならない。

でなければ、百記事はおろか、十記事にも届かずに筆を折ってしまうかもしれない。

 

受け手に期待しない事、それはブログに限らず、動画や写真、あらゆる発信を継続していく鍵である。

 

受け手の反応が帰ってきたら御の字ぐらいに思って、自分が楽に肩の力を抜いて続けられる事、つまりは好きな事を、マイペースに発信していく。「好き」を収益にする事などは、宝くじに当たるようなものだと99,9999%諦めておく事。

 

諦める事で積む事が可能になる。とりあえずは、百記事のマイルストーンまで積む事ができれば、万に一つの宝くじは、当たらないとも限らない(当たらんw当たらんw)

 

諦めた先にこそ、未来があるのだ。

映画レビュー 『小さいおうち』

今日は山田洋次監督の2014年に公開された『小さいおうち』という映画を観て考えたことを書こうと思う。

 

 

 『小さいおうち』 /監督:山田洋次/製作国:日本/製作年:2014年 

<あらすじ>健史(妻夫木聡)の親類であった、タキ(倍賞千恵子)が残した大学ノート。

それは晩年の彼女がつづっていた自叙伝であった。

昭和11年、田舎から出てきた若き日のタキ(黒木華)は、東京の外れに赤い三角屋根の小さくてモダンな屋敷を構える平井家のお手伝いさんとして働く。
そこには、主人である雅樹(片岡孝太郎)と美しい年下の妻・時子(松たか子)、二人の間に生まれた男の子が暮らしていた。

穏やかな彼らの生活を見つめていたタキだが、板倉(吉岡秀隆)という青年に時子の心が揺れていることに気付く。

シネマトゥデイより引用

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の映画では確かに戦争が人々にもたらす悲しみが描かれてはいるが、中国や南方の島々で戦う兵隊や焼夷弾で焼け落ちる街、防空壕で息を潜める市井の人々など、おおよそ太平洋戦争に纏わる映画やドラマに頻繁に出てくる悲惨さが、典型的に描写される事はない。

 

この映画が描くのは、徹頭徹尾、平井家をめぐるお話、「小さいおうち」をめぐるミニマルなお話である。この映画には、戦争映画に有りがちなこれ見よがしな残酷描写はない。代わりに、時子やタキといった個人の感情が封殺されていく過程に徹底的にフォーカスを絞りこむ。

 

この映画は太平洋戦争という途方もない出来事から、あの時代に抑圧されていった個々の人間の悲しみを、現代人にも共感可能な悲惨さとして、丁寧にそれをより分けて私達にみせてくれるのである。

 

「小さいおうち」の非常に素晴らしい点は、戦争の時代の悲しみを、天災のようなものとして描くのではなく、あくまで人が生み出した悲しみとして、描ききっている点である。

 

時子やタキの感情を封殺していくのは、世間の目であり、世間とは実際に彼女らの周りを取り囲む人間の連なり(亭主、会社の同僚、近所の酒屋etc)である事は、はっきりと描かれている。この人間達は、決して明確な悪意を持って時子やタキを抑圧しているわけではない。ただ、慣習や世の中の流れに従って、加害者意識も希薄なまま、何となく時子やタキを抑圧していくのである。

 

この映画のタイトル、『小さいおうち』とは、「壁に耳あり障子に目あり」の狭っ苦しい世間、同調圧力の強い日本という国の事を暗に示しているように思える。物語の終盤、焼け落ちていく平井家の「小さいおうち」は、戦争に負けて瓦解した大日本帝国のメタファーかもしれない。

 

老女になった現代のタキが、自身の過去の行為を悔いて号泣する場面はこの映画の中でも屈指の名シーンであろう。

 

タキは、板倉に時子の手紙を届けなかったことで、板倉と時子の関係を終わらせる。タキ自身も性的マイノリティとして抑圧される立場にありながら、自身の時子に対する愛情も相まって、世間とともに時子を抑圧する立場にまわってしまう。この映画におけるタキは、自身が他者の感情を封殺した加害者であるということを明確に自覚する、恐らくただ一人の登場人物であると言えるだろう。

 

そして、その明確な加害者意識があったが故に、戦後もずっと、時子に対する行いを悔いながら生きてきたのである。老いたタキが、後悔の涙を流す場面の痛々しさからは、タキ自身もあの戦争の時代の加害者でありながら同時に被害者なのだと感じさせられる。

 

新元号という石ころについての考察

たまに電車に乗った時、ふと吊り広告を見ると、結構過激に右寄りな雑誌の広告がフツーにあったりして、その違和感が凄い。知らぬ間に、自分はパラレルワールドにでも迷いこんでしまったのではないかと、想像さえする。

「令和を貶める人たち」

これ、その中の一つの記事の見出しである。
デーヴ・スペクターやら田原総一朗やら「令和」のネーミングを批判をした人たちやり玉に挙げる内容の様だ。


しかし、、、

ちょっと笑ってしまうトコないですか?

いい年した大人が顔真っ赤にして怒っている姿が目に浮かんでしまうもの。

その切れまくってる人にとって、元号て、そんな大切なのものなのだろうか。

うん…
きっと彼にとっちゃあ、それがとても大切な事だからプンスカしているのだろうな。


僕にとっては、
まあ正直どうでもいい。

確信犯的な黙殺である。



しかし、
本音のところ、

元号のネーミングについて人々が大騒ぎする理由も分からなくはない。

元号は新しい言葉であり、あらゆる言葉には言霊が宿るからだ。


言霊とは、人や物や事に何らかの影響を与える言葉の力の事である。例えば、西暦2019年が新元号の元年とされたが、この「元年」という言葉にあやかって、各地では新元号元年セールが実際、催されている。これは言葉が物事に影響を与える一例である。

元号を知らない人にとってはただの2019年なのだけれど、一度言葉にされ認識されたなら、2019年5月からが新元号の「元年」であり、「元年」なのだからとセールしたりお祝いしたりする気分になるわけだ。「元年」という言葉は、世界をキラキラと輝かせるフィルターであり、この言葉の効力に引っ張られる形で、実際に各地でバーゲンが行われる訳である。

同様に、「令和」という言葉もまた、きっと周りに影響を与える力、つまり言霊を宿している。しかしながら、それが僕達にどういう影響を与え、どういう時代となるのかは、後の時代から振り返ってみないと分からない。



先に断っておくが、僕は「令和」、好きではない。意味は置いておくとしても、響きや字の見目すら良くないと思う。なんか陰気臭い。

だが、
好きではない半面、よく考えられいると感心せざるを得ない。

というのは、
好きな人と嫌いな人がはっきり分かれる、鋭さを持った言葉だからだ。その響きもさることながら、この「令」という字。令月の「令」か、命令の「令」か、いずれの意図にしろ、この「令」という字を使っている点がまた、確信犯的だと思う。どちらの意図が込められているのかは、この際、実はどうでもよくて、新元号が議論を呼び起こす事こそ、この「令」という字が用いられた最大の意図かもしれない。「令」は、新元号に皆の耳目が向かざるを得ない強い文字である。

元号を絶賛する事と同様に、これについて否定的意見を述べる事もまた、この新元号の力を増す事となる。アンチが騒ぎたてるほどに、この新元号はより多くの認知を得る事になるだろう。そして、騒ぎ立てた所で新元号が今更変わる訳でもなく、アンチの言説が尽きた頃には、結局の所は無言の承認を与える形になる。まさに炎上マーケティングの原理である。

「令和」が皆の頭に刷り込まれるとともに、時代はこの新元号の言霊に引っ張られていく事になるかもしれない。

だが、

なるべくなら、どこかの老いぼれた権力者の決めた言葉などに右往左往される事なく、自分なりの道をマイペースに歩みたいものである。

だから、新元号についてあーだこーだ言うのは、正直、気が進まない。


批判するのすらペースに乗せられているみたいで恐ろしい。石ころの様になるべく意識し過ぎる事なく気楽に避けていたい。言説を増やす事で、言葉の持つ霊、言霊に力を与えたくない。

たかが、元号やないか。
どうでもいいわ。

というスタンスでいたい訳である。


そもそも、
「平成」の元号が発表されたとき、そんな騒いだっけ?

幼かったので忘れてしまったが、皆、まだまだ無関心ではなかったか?

たかだか元号の事で、今回の様に、皆さん顔真っ赤にして、喧々囂々してた?


どうだろうか。


しかし、
かく言う僕も、電車の吊り広告のパラレルワールドじみた異様さに釣り出されて、今回、この記事をもって新元号に関する言説を一つ増やしてしまったわけだ。


いやいや。

元号も本記事も、たかが石ころ。
さほど気にする事はないのである。

ひきこもりのすゝめ

人それぞれ様々に縁を持つ。

生まれたての頃は親兄弟だけだった縁も、身体の成長に伴って横に縦に広がっていく。
親類、学校の友達、上司に部下、配偶者、子供。
やがて、ひとしきり広がった縁は徐々に収束していき、最後に死と向き合う時は、とうとう独りになるのである。

人の一生はよく線香花火に例えられる。
最初はぼそぼそと始まって、パチパチ火花を散らし、最後はしゅんとなって闇に落ちるわけだ。
縁が徐々に広がってやがては独りになる、そんな一連を連想させる。


ところで、
三十半ばの僕は、
ちょうど働き盛りであり、今まさに線香花火がパチパチ弾けている状態。
縁が縁を呼ぶ、そんな確変状態な訳だ。

ただし、
僕が理想的な社会人であり、それなりの環境に身を置いていれば、の話である。

そう。
僕はなるべく働かない生活を送る、ほぼ無職だ。

三十半ばにして、様々な縁を遮断。
線香花火で言えば、火花をパチパチ散らす状態はとうに過ぎ去り、ぼそぼそと手じまいの準備を始めている。
そんな働き盛りの三十代にあるまじき状態。
まるで死に近づいて枯れていく晩年の有り様だ。


しかし、
僕は今の状態に、実はそこそこ満足している。


確かに、
世間一般の全うな社会人の如く、パチパチと火花を広げる様に人と縁を広げて、色々な刺激が欲しい。
そう思う時も無いではない。

だが一方で、
僕は人間関係を煩わしく感じる事が多いのもまた事実だ。人間と付き合う事から得られる楽しみよりも、その面倒くささが勝ってしまう。

また、
人間から得られる刺激に、どこかで諦めがあるというのか、単に飽きたというのか、新しい人と知り合ってワクワクする事もホント少なくなった。

人を類型化して見る。どこかでそのタイプを既に知っており、この人はこういうタイプの人なのね、とついカテゴライズしてしまう。そして、そういったカテゴライズが割と当たっていたりもして、数少ない新しく知り合った人間から新奇な刺激を得る事が、最近ではほぼ無いのが経験的事実だ。

まあ、単に僕の頭が老いて、腐ってきているだけかもしれない。とは言え、そんな僕でも未だ、刺激の尽きない事は幾つかある。

例えば、僕は音楽を作ったり人前で演奏したりする。
勿論の事、それはお金を稼ぐための仕事ではない。現状お金に全くならない。
ただ、音楽とは単なる趣味と言って割り切れるほど淡白な関係でもない。

音楽に関して一度も専門的な教育など受けた事はないが、十代のころからいつの間にかそこにあって、止めたり、また始めたりしながらも、何だかずっと燻り続けている。

それを此方が好む好まないに関わらず、引き寄せられる様に繋がってしまう縁があるわけで、そんな縁は、俗に腐れ縁といわれたりする。

縁という言葉は、実際、人間関係に対してだけではなく、自然や物や事に対しても使う事のできる、広がりを持った概念でもあるのだ。

僕にとっての音楽はそんな感じで、パチパチというよりはブスブスとぐずりながら繋がっている腐れ縁だと言えるだろう。腐りながらも強力に繋がっているこの縁のおかげで、僕の場合、人間と縁を結ばなくても、毎日の刺激を保てている訳である。

人は所詮、出来ることしか出来ない。縁とは、結局はなるようにしかならないのではないか。

木が柔らかい栄養豊富な土を求めて根を張るように、人は自身の糧になるものを求めて方々に手を伸ばす。

ある木にとっての貧弱な土壌は、別の種の木にとっては栄養豊富な最適な環境かもしれない。木によっては、伸ばした根を跳ね返す様なカチカチの土を好むものさえあるが、重要なのは、その木の性質と生まれ落ちた環境との組み合わせである。

運が良ければ、目と鼻の先にその木にとって栄養豊富な土壌があるかもしれないし、生まれ落ちた場所が悪ければ一生かけて根を伸ばしても自身の糧にならない貧弱な土ばかりかもしれない。

人もまた同様ではないだろうか。

Aさんは様々な人間と付き合う事から自身の糧となる刺激を得るかもしれない。となればその人は、多くの人と知り合う事を好み、そういった場所に常にその身を置ける仕事を選ぶだろう。Aさんの意志と、その身を置く環境が一致すれば、Aさんの縁は、線香花火がパチパチ爆ぜる様に、木が旺盛に根を張る様に、広がるはずである。

Bさんは山や海といった自然と向き合うことに刺激を見出し、そこに多くを学ぶかもしれない。そうであれば、その人の時間は積極的に山や海に割かれるはずである。しかし、Bさんが山や海の仕事ではまともに食っていけず、生活の大半を都会でのアルバイトに費やしてしまうならば、必然的にBさんと山や海との縁はなかなか強固なものに育まれていかないだろう。

人それぞれにとっての栄養豊富で刺激的な場所が、人間関係だっり、山や海であったり、ひょっとすると独りの部屋だったり、各々異なっている。そして、そういった各人の性質と生まれ落ちた環境との相性によって、縁の広がり方が決まる。

つまりは、
縁とは結局なるようにしか成らない部分が大きいわけだ。


そう考えると、
「三十代半ばは働き盛りで線香花火をパチパチやるみたいに縁が縁を呼ぶ状態である」とか上述したけれど、それは実はほとんどの人達に当てはまらない、かなり理想化されたステレオタイプの様に思えてくる。

多くの人達は縁を繋げたくとも繋がらない。うまく広がらない。やりたくもない事に日々を忙殺される。そんな大人ばかりではないだろうか。


現代社会における凡その仕事は、人と人の間を取り持つ場に在る。自然を相手にする農業や漁業といった第一次産業は先細りしていく一方で、人と人との間を取り持つ仕事は数多い。

コミュニケーションが好きで好きでたまらない。
そんな生得的な性質を持った人達にとっては、今の社会は、木の根を延ばすように縁を広げるのに、最適な土壌だと言えるのだろう。


そう。

もしあなたがシケた花火みたいにぼそぼそやってるとしたならば、それはきっとコミュニケーション能力を強く問われるこの世の中のせいである。

あなたが生まれ持った性質にとって最適な環境が、あなたの身の回りになかったからだ。生まれ落ちた場所が悪かったのか、時代が悪かったのか。

あなたはきっと大らかに大地に根を張るべく、縁を方々に広げるべく、この世に生まれ落ちたはずである。ただ、現代社会はあなた方の多くを、容易には受け入れてはくれないだろう。

だからといって決して腐ってはならない。

所詮なるようにしか成らないと知りながらも、意識的にあなたに合った縁を引き寄せる努力はきっと無駄ではない。

まずは何とかして自分を育んでくれる最適な土壌を見つける事である。

もっともあなたの選ぶ物事がお金にならないのであれば、やはり働く時間は必要で、完全な満足を得る事はキビシいかもしれない。しかし、意識的に生活の中から無駄を省く事で少しは今よりマシになるのではないか。ここで言う無駄とは、各人にとって異なるが、ひょっとすると現代社会で消耗している多くの人の場合で言うならば、それは人間関係であるかもしれない。

そこが、あなたにとって、もはや刺激を得る事の少ないカスカスの土壌であるならば、さっさっと撤退すべきである。ズルズルと無駄を引きずるぐらいならば、ひきこもるほうがよほど健全なのだ。



この世界には、華やかな社交場を好むヤツもいれば、沼地の様な環境を好むヤツもいる。あなたが、仮に後者だとしても、決して恥いる事は無い。人それぞれ異なるのはとても自然な事で、あなたにのみ繋がる縁が、きっとあるはずである。僕も、なるべく無駄を遮断して、自身に繋がるはずの縁を日々手探りしている。こういった縁の繋がりに敏感になるためには、社会からの雑音を極力シャットアウトする。雑音を排する事ができるならば、自身の五感の解像度は少し上がるはずである。解像度の上がった五感で捉えた世界は、あなたの眠っていた好奇心をそっと呼び起こすかもしれない。

そんな訳で、
コミュニケーション能力の問われる社会生活に疲れきった人は、まずはひきこもってみては如何だろうか。そこには、人間では無い何かとの素晴らしい出会い、あなたにしか繋げない縁が待ち受けていても不思議では無い。

生きた記録を残す事

子供に向かって大人は、「自分の頭で考えなさい」
とかよく言うけれど、果たしてどれだけの大人が自分の頭でものを考えていると言えるのだろう。

世の中には様々な考えや意見が溢れている。
だが、それらの元を辿れば多くは、どこかで誰かから聞きかじった事、本やネット、テレビの情報、だったりする。
そして、人がさも自身の考えかの様に喧伝する事の多くはそれらの情報を中継しているだけだとは言えないだろうか。


思い出してもみてほしい。


あなたが昨日友人に話した事。
それはあなたが自分の手や足や耳鼻や目を使って、直接仕入れた情報だったか?
あなたが自分の頭で考えた?本当に?

通勤電車で目に入ったつり広告、昨日寝る前にスマホでみたまとめブログ、妻から聞いた新しい健康法について、エトセトラエトセトラ。

あなたが直接見たであろう電車のつり広告の中身は、そもそもがある政治家の発言の受け売りかもしれない。
妻から直接聞いたであろう新しい健康法は、妻がワイドショーで仕入れたネタ、それも元を辿れば、古くは太極拳に起因するものかもしれない。

あなたが直接仕入れたと思い込んでいる情報のほとんどがそもそもは借り物、借り物の借り物、借り物の借り物の借り物…だったりする。


そして、
そんな借り物の力を借りなければ、日常での話題作りはおろか、モノを考える事すら実は難しい。


例えば、
地図とは、社会の共有財産から借りてきた情報である。

地図は云わば、鷹の目、空からの視座を得る道具である。空からの視座を得る事で、人は自分の今いる場所や目的地についてを、彼と我との位置関係と距離を知る事ができる。

目的地まで歩くのか、バスを使うのか、湖を渡るルートか、迂回するのか、どれだけかかるのか、目的地までお金や食料は持つのか。

空からの視座を得る事で、
思考のタガが外れる。
考えられる事、考えておかなければならない事がぐんと増える。見えてくる。


地図であれ、テレビの流すニュースであれ、ネット情報であれ、それらのメディアは自身の五感で把握する周囲数十メートルの情報をはるかに越える範囲の情報得る事を可能にする。

社会とは数百万、数億の人間が寄り集まった巨大怪獣の如きものだ。地図やテレビやネット、そう言った全てのメディア、社会的所有は、そんな怪獣の力を一時借りて個体の五感を怪獣サイズにまで拡張する事を可能にせしめる。

こうして怪獣サイズに五感を拡張する事で、人間は個体サイズの五感から得られる情報からいったん離れ、自身をも豆粒の様に俯瞰する事ができるほどに多くの情報を得る事になる。

個体の限界を越え、怪獣サイズに五感を拡張する事。それは社会的所有を持つ、ヒトと言う種ならでは最大の特徴である。
つまり、
人が人である以上、社会とは不可分であり、あらゆる人間は社会とのサイボーグなのだ。怪獣サイズに膨張しない人間はいないのである。


しかしだ。


人の五感を拡張せしめ、モノを考えることを可能にしたのは社会という怪獣だが、個体の思考を束縛するのもまた、同じ怪獣=社会ではないか。

なぜならば、地図やテレビのニュースといった、僕らが日々接する情報も、情報交換に使用する言語も、概ねが社会からの借り物であり、僕達個人に、それを自由にできる権限がほぼないからだと言えるだろう。

僕らが社会の共有財産の所有者でもあるというのは凡そ、まやかしの様なものであり、神聖なる社会的所有を勝手に変えたり無茶苦茶にする事はとても難しいのだ。

例えば、
信号機をハバノフと名付けたり、アメリカを北海道よりも小さいと吹聴する事は個人の自由ではある。

しかし、
何の権威もないちっぽけな僕が信号機をハバノフと言い張ったところで、誰にも信号機のハバノフっぽさが伝わらないだろう。結果、信号機ハバノフ論は多数の支持を得る事なく「妄想」や「誤った情報」の烙印を押される事になるのである。

信号機というモノや概念や言葉は
僕がこの手と頭で作り上げたものではなく、
アメリカや日本に関しての情報や歴史や常識は
僕がこの足と目で確認して来たものではない。

何度も強調するけれど、
それら全ては、僕という個体のキャパシティを遥かに越えた領野からの借り物、ちっぽけな一個人がいたずらする事は基本的には御法度の、云わば「神聖なる借り物」である。

そして、
人と社会的所有とは不可分なわけだから、個体と一体化しているその大部分が、実は個人で勝手に手を加える事の難しい神域なのだ。

人間の内にある、硬直した領域。神域。
「神聖なる借り物」は僕らに怪獣の視座を与える事で五感を拡張し、より広範な思索を可能にせしめる半面、その考え方やモノの見方等、あらゆる部分で、実は僕らを束縛する事に気づくだろう。僕らがモノを考えるために「神聖なる借り物」に頼らなければならない以上、自分の頭で考える事はほぼほぼ不可能な事だと分かる。



では、
僕らを束縛する「神聖なる借り物」にアクセスし、それを改変する方法はあるのだろうか?

先ほど述べた様に、
ちっぽけな僕などが信号機をハバノフと改変する権限が無いのは明らかである。個人が「神聖なる借り物」を改変するには、相応の権威が必要であり、そのためには社会というヒエラルキー構造の上部にいる必要がある。

「神聖なる借り物」を改変する権限を持った人達とは、結局はただただ社会的に絶大なる力を持った人達なのだ。

「神聖なる借り物」をそっと改変する事は、そのまま僕やあなたの頭の中を知らぬ間に作り替えてしまう事に繋がる。全ての人間は「神聖なる借り物」である社会的所有と不可分に結びついたサイボーグなのだから。

そう。

歴史ですらもそっと改変されてしまうならばどうだろう?僕らの信じていた賢さが愚かさに、美しさが醜悪さに、ひっそりと入れ替わってしまうとしたら?

荒唐無稽な話の様だけど、
このような社会的所有の改変は、遠い未来の話ではなく人の歴史の中で絶えず現在進行形で起こり続けている事ではないだろうか。

そして、
そうやって知らぬ間に作り替えられていく頭で、自らの変化を客観的に認識する事は、とてもとても困難な事だと思う。


そこから逃れる事はおろか、その認識すらもほぼ不可能というわけである。

とは言え、
ちっぽけな僕にできる事も幾つかある。

それは

日記や音楽や動画、生きた記録を残す事。
そして、
記録を現在の視点で改変しない事。


そうやって個人の生きた記録のみが、ひっそりと変わりゆく現在に対して小さな違和感を発し続ける事にはなるのではないだろうか。

そう。
信じて積んでいこう。





なんと。

本日のダラダラと長い記事にも大した!意図があったわけなのだ。

というわけで、

今日の日の記録はここに締める事にしよう。

妄想世界をブラついて

ほぼ無職の僕が毎日をどうやって過ごしているか。

ゲームをする。本を読む。映画を見る。
ネット徘徊。YouTubeを見たり云々。

要するに、日々の多くを、どこかの誰かが創り出した世界で過ごしている。

だが、きっとそれは僕に限った事ではない。たまに電車に乗れば、皆スマホを弄ってゲームやネットで何やらやっている。

今では皆スマホに夢中だが、僕が高校生の頃は、電車の中では本や雑誌を読んでいる人が多かった。
心此処にあらずの感じは、メディアは異なれどよく似ている。

そもそも、
云千年前から、暇があれば人は神様についての物語に熱心に耳を澄ませていた。

その頃からずっと、人は何処かの誰かが妄想した世界の中で遊んでいたのだ。


妄想という言葉には病的な響きがある。

そういう意味で、
神々のお話が妄想的だという事はよく理解できる。息子を殺して象の首にすげ替えたり、神の目や吐瀉物や糞から新たな神々が生じたり。せん妄状態の幻覚さながらにサイケデリックで病的だ。

しかし、これを病的で妄想的だと感じるのは、僕らが神々の世界が多数に支持されない現代を生きているからだ。古代の人間にとっての、神話世界の感じ方は我々とは全く異なったものだったに違いない。

古代人にとっての神話とは、妄想的なものではなく、歴史であり、真理だった。

多数に支持されない妄想は、「せん妄状態の想像」とされるが、何処かの誰かの妄想が多数の支持を得る時、それは時に世界の起源とされ、真理とされるのである。


では、我々にとっての、ネットや本、映像メディア上の情報等はどうだろうか。それはものによっては妄想的であるが、時に真実味を帯びていたりもする。

しかし、
文章や映像や歴史ですらも、何処かの誰かの頭の中がその大元だとするのならば、そもそも全ては根拠無き妄想がその起源なのだ。だとすると、その真実味もまやかしに過ぎない。

ただ、真理の椅子を獲得した妄想は、あまりに自然に僕らと共にあるものだから、上手く見分ける事ができないだけではないのか。

愛と平和や金や科学や健康

僕らが信じ込んでいる正しさは本当か。
未来人からすれば、現代人は可笑しな迷信に生きているように見えるかもしれない。



ところで、

電車でスマホに夢中の人達を見る時、また、近くのブックオフで山の様に積まれた漫画や本やDVDを眺める時、ふと不安を感じる事がある。

こんなにも世の中に妄想世界が溢れていて、それら妄想世界は、実は真理への予備軍でもあるわけだ。そんなめくるめく妄想世界がもの凄い速度で膨れ上がっている。店には本やDVDが溢れ、ネットには無数の企業や個人が投稿した文章や映像が秒単位で更新されていく。そんな中から、皆を虜にする何処かの誰かの全く新しい妄想が生まれてもおかしくはない。未知は、わくわくする半面、とても恐ろしくもある。

愛や科学等は、現代では未だに多数に信じられ真理とされている妄想だが、そういった全てが「せん妄状態の想像」とされる時も、思ったほど遠い未来の話ではないかもしれない。

そんな事を妄想しながら、
今日も誰かの妄想世界をブラついている。